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佐々木正悟のメンタルハック

メンタルハックをテーマにおいたビジネス書作家・佐々木正悟のブログです。ビジネス書作家のワークスタイルを中心に書いていきます

「みんなと仲良くなる」のは難しくないのに、人間関係が難しい理由

受話器を取って相手の声音を耳にしたとたん、明らかに相手は怒っているようだ、ということは大半の人が即座に察知すると言われます。「人の気持ちが分かってない」と言われがちな私でも、この能力はあります。

この「察知」を可能にしているのは『ファスト&スロー』でいう「システム1」です。システム1はとかくこのように、意識がのぼる前に何かを「察知」したり「直感」する能力に長けています。

 

ファスト&スロー(上) あなたの意思はどのように決まるか? (ハヤカワ・ノンフィクション文庫)
 

 

逆に「熟慮」を要することや、「しっかりと分析」しなければならないことは、まずできません。やれたとしても、間違います。

人は「みんなと仲良くなる」能力をほぼ生得的に備えている

私にはもしかしてそれすら欠けているのかもしれませんが、どうやら人間は生来「誰とでも仲良くなる」なら、そう難しくはないらしいです。

『人の心は読めるか?』(早川書房)はこのテーマを中心に沿えた珍しい心理学本ですが、のっけから面白い実験結果を報告してくれます。

 

 

人の心は読めるか?──本音と誤解の心理学 (ハヤカワ・ノンフィクション文庫)

人の心は読めるか?──本音と誤解の心理学 (ハヤカワ・ノンフィクション文庫)

 
人の心は読めるか?

人の心は読めるか?

 

 

本書によると、私たちは、自分が属するコミュニティ全体に、好かれているか嫌われているかは、よくわかるようです。

学校のクラスのみんなが自分をどう思っているかとか、会社の同僚全体にどう思われているかとか、それらについての予測は、だいたいのところ正しいようです。

しかし、特定の誰かが自分の事をどう思っているかとなると、赤の他人が当てずっぽうを言ったのと、あまり変わらない予測しかできないらしいのです。早い話が予測力がほぼない。

これと、冒頭の「システム1」の能力を考え合わせてみると、どうも私たちは「みんなと仲良くなる能力」しか持ち合わせていないようなのです。

「システム1」は相対的にシンプルな脳機能です。誰かが怒っているか笑っている悲しんでいるかを察知する。それは世界共通であることを心理学が発見し、これは有名になりました。

つまり、アフリカに行っても、北極に行っても、相手が人間である限り、どんな気持ちでいるかはだいたいのところ、わかる。これは特定の誰かの気持ちを読むより、遙かに広範囲に適用できる「法則」なのです。

また、システム1は「慣れ親しんだ人」に「好感を持つ」という「単純接触効果」に強い影響を受けます。ロバート・ザイアンスの発見したこの事実がいっていることは要するに、「何度もこの人に会っているが、危険な目には遭わなかった。安全な人だ。安全なのは良いことだ」というだけのことです。

このように、所属するコミュニティでうまくやっていける能力を、ほとんど「生来」備えているのに、私たちがもし人間関係でうまくいかないとしたら、誰か「特定の人と」仲良くなろうとしているから、という気がします。

あるいは「特定の仲良くできない誰か」のことばかりを気にしているせいかもしれません。

残念ながら、人は「狙った特定の人間とだけは仲良くなる」などといった能力を備えていない。少なくとも「生来」は備えていないようです。特定の誰かの気持ちを読むとなると「とんちんかん」だし、それをしっかり分析するとなると、仕事をしたがらない「システム2」を呼び出す必要も出てきます。

そもそも「単純接触効果」など、「恋人作り」にも婚活の役にもたちません。これは大学時代の私の痛々しい経験から、はっきりしています。好きな人にひたすら「単純に接触する」をくり返していても気持ち悪がられるばかりでした。

それじゃどうしたらいいのかと言われても私にはなかなか応えられないのですが、少なくとも「特定の誰かに好かれればいいから。そのコミュニティ全体には無視されてもいいから」という戦略は悪手であり、その逆が好手かもしれません。

「みんなにいい人だと言われるだけでは十分じゃないのだ」というお気持ちは分かります。でもまずはきっとそこからなんです。

 

NozbeからTodoistへ転向中

非常に部分的な利用でありまして、若干贅沢なのですが、要するにそのほとんどは「経理系の処理のためのプロジェクト管理ツール」と化していたNozbeを今回Todoistへ切り替えているわけです。

もちろん、次のニュースを受けてのことです。

blog.todoist.com

これがやりたくてNozbe使っていたわけですが、どう比較しても

  • Nozbeより連携が速い
  • NozbeよりTodoistが安い

のですからしょうがないですね。

特にこの連携反映の速度が半端なく、リアルタイムが嘘じゃないのです。ちょっとびっくりします。

とくにいま、ここがポイントなのですが、カレンダー側からタスクを入力することの方が多いくらいになっていますから、この速度は速くて速すぎるということはないのです。

ぜんぶたすくまでもいい、のですが、ファイナンシャル系のタスクは、マンスリーでの処理が多く、日程の影響も大きく、処理日に時間の余裕があるかどうかもわかりにくい。

ですから、カレンダーで時間的余裕を確認したいわけですね。

たとえば、一〇日にクレジットカードが引き落とされるとして、その内容を確認して、二〇日の税理士さんに報告するまでの間に、処理したいというとき、毎月一〇日に確実に作業できるならタスクまでいいのですが、一一日がいいかもしれないし、一二日がいいかもしれないが、一九日ではよくないというようなとき、カレンダーで確認したいわけです。

しかも、ファイナンシャル系の一連の作業は、前後依存関係が強くあるため、プロジェクトとしての日程もなかなか大事なわけです。

心が傷ついたときによく考えること

自分の親はひどかったけど、あの人のことを憎むのは時間のムダだし、そういう自分になりたくないから、憎むことはしない、という言葉を聞いたことがあります。

それは憎んでいる、のではないだろうか、と思わないでもないのですが、同時に、それはどこかしら危険なことではないだろうか、と頭をよぎります。

私は、親が憎い。ということであればこれは、憎しみが「私の側」にあるのであって、つまり何らかのネガティブなエネルギーが「自分の中にある」ということを意味します。

しかし、私は親を憎まないが、親は悪かった。となるとこれは、「悪」が「私の外」にあることになり、「私の側」は悪から切り離されてしまう。このように切り離してしまうことによって、怒りとか憎しみといったエネルギーはしかし、どこへ行ってしまうのだろう。

私もどちらかと言えば感情というものが苦手な方で、比較的「自分の感情とは距離を置きたい」と思う人間です。

しかし、感情と自分とを切り離してばかりいると、痛烈な感情を自分が発しつつあるとき、意外とその対応力において自分は未熟であるなと思い知らされることがあって、もっと幼い頃や若いときに、ネガティブな感情を自分と切り離さずにおくべきだったと思ったりもするわけで、そうであれば今もまた、「悪を外に置く」のではなく、怒りを内に感じるべきなんではないかと思ったりするわけです。

しかしネガティブな感情を、人はもてあます。怒りや憎しみを自分から切り離さず、それでどうしたらいいのか?と問われるかもしれません。人にぶつけることもせず、理性的に自分と距離も置かなければ、とても苦しくてやってられないではないか。

スポーツで発散するとか、まんがや小説を読んで忘れるとかいった対処の仕方もあるでしょうが、ことが深刻になればこれは、どうしようもない気もします。自分のものとして保っておくより他はない。でもそうやって時間を経過させることが、感情への対応力そのものなのではないだろうか。

なんとなく心がけるようになったのは、「切り離さない」ことのほか、「体に背負わせないこと」でしょうか。感情は感情として保つのであって、それを体の負担に切り替えると、それもできるのですが、体を痛めてしまいます。40すぎて、そのことを実感として理解できるようになりました。

「自分の本当の望みがよくわからない」というのは「幸せ」なことだと思う

私は心の底では表題のように思いながら生きている人間なので、むしろ逆にというかありきたりに「欲しいものが、欲しい」みたいなことにはなりやすい人間で、そのことに警戒してもいます。(ああややこしい)。

ほしいものが、ほしいわ。

糸井重里さんのキャッチコピー | ネット広告漂流教室

そんな自分のため、最近たまたまみつけた「本人の書いた本とか講義の内容が、むちゃくちゃ難しいうえに、逆にちょっとでもわかる人にとっては、ものすごくインパクトが大きかった」ラカンという人の話を「むさぼるように」読んでいます。面白いです。これなどがまさに「欲しいものが、欲しかった」ですね。

 

生き延びるためのラカン (ちくま文庫)

生き延びるためのラカン (ちくま文庫)

 

 で、数冊読んでいるうちに、これまでに自分がもっとも「ラカン的だ」と思っていた(あとからわかった)のは、平野啓一郎さんの『ドーン』という小説の中のエピソードでした。

 

ドーン (講談社文庫)

ドーン (講談社文庫)

 

 

これは、今のトランプ政権や、アメリカの近未来、火星探索、ドローン技術などの先取りみたいな、とてもたくさんの要素が詰め込まれた大作で、非常に面白いのですが、いちばん印象に残っているのは「亡くなった子どもを再現する技術と、その技術の中でもまたその子どもを喪失する」という、なんというか心にしみる逸話です。

「亡くなった子どもを再現する」と言っても、それは言ってみれば「視聴覚に対してのみ再現される」のですが、単なる立体映像のみならず、人工知能が言ってみればクロスオーバーみたいな形でともなっているため、コミュニケーションもとれてしまえるし、子どもの成長過程も体験できるという、すごいものです。

私は当時かなり娘が幼児だった上に、近いタイミングで3.11も経験したため、こんな技術があったら気が変になりそうだと思いながら読んだのを覚えています。

ラカンは私の理解の範囲内では「欲求」と「欲望」を分けて扱っていて、人は、他の動物とちがって「欲望」を持つことはできるが「欲求」を持っていない。しかし、ある特殊な事態に見舞われると「欲望」が「欲求」に限りなく近くなっていく。そしてそれはかなり危険なことである。が、あまりに「欲求」から遠く隔たってしまうと、いわゆる「草食系」になってしまい、「欲しいものが、欲しいわ」なんてことを言い出しかねない。

「狂おしいほどになにかを求める」というのは、まちがいなく「自分の欲しいものを非常によくわかっている」状態なのですが、ふつうに考えて、決して幸せとは言えません。

www.nhk.or.jp

こんなことがあったりするとよく「人は失ってから失ったものの大きさに気づく」(たいてい別れ話を勝手に持ち出した男がよりを戻そうとするときなどに使われる言い回し)などと言われたりしますが、つまらん説明だなあ、とよく思っていたものです。

これまた私の理解の範囲内ですが、ラカン的に考えると「狂おしいほどに暴走してしまった欲望が求めているような真に望まれる現実」というものは「実在しない」または「この世では巡り会えない」。けれどそれは、「幻想」でもない。たとえば亡くなってしまった最愛のわが子というのは、そうでしょう。

それを失う前には、そもそもそんな「言葉も寄せ付けないほど実存的な現実」と、人は直面しない。その価値の高さは、失う前と失ったあとでは、決定的に変化してしまうもので、もともとそうであってものの価値を、失ってから気づくのは愚かだ、などというのはあたらないと思うわけです。

「欲しいものが、欲しい」というのはつまり、気づくことのできない場に身を置いているということで、それはそれで「幸せ」なことでしょう。

 

ラカン入門 (ちくま学芸文庫)

ラカン入門 (ちくま学芸文庫)

 

 

「自分の存在」が否定されたとき、私たちはどうするのか?

「自分の存在を否定するようなことをいわれた」という話をたまに聞きます。そのつど「これはどういう意味なんだろう? 自分のあのいやな経験と似ているんだろうか? そう思ってイコールで結んでもいいものかどうか」とあれこれ考え、悩むことになります。

こういう時に私が真っ先に考えるのがフロイトです。存在の否定、トラウマ、去勢恐怖・・・といった概念が連想されます。連想という言葉が、そもそもフロイトを連想させます。

それにしても「去勢恐怖」などといったって、意味不明だと思われるのがオチでしょうが、先日いい漫画のエピソードを思い出して、「あれは去勢恐怖の話としてわかりやすいよなあ」と思い当たったのでご紹介します。

 

悪魔の花嫁 16

悪魔の花嫁 16

 

 

これに収録されている「糸車のある城」という、まあ童話のパロディですが、小話があります。

エルザというかわいい赤ちゃんが生まれるのですが、15歳になると顔にみにくい傷ができるとかいう呪いをかけられます。その呪いから守るために、パーティに呼ばれた魔女がタペストリーを護符として授けます。

「地から雷がわき、霊木が空から生えることがない限り、護符が破られることはない」といって両親を安心させるわけですが、そんなありえそうもないことが、当然かならず起こるから童話なわけです。『マクベス』ですね。

護符によって守られた女の子は「美しく」成長するものの、大病のために「視力」を失っています。
しかし、「悪魔の花嫁」ではありがちなやさしいフィアンセに愛されて「幸せな毎日」を送っています。

この「幸せな毎日」がフロイトの言うところの前エディプス期にあたります。母子「一体」の万能感に包まれた、過不足のない完全世界。護符が守るというのはこの世界なのです。

しかし女の子が16歳になるとき、たまたま護符であるタペストリーをひっくり返してしまい、その絵柄がちょうど「地から雷がわき、霊木が空から生える」様子を描き出してしまいます。私は子供の頃、「これは絵であって、実際に雷が地から湧いたことにならんだろう!」とイラッとした記憶が強く残っています。変な記憶が残っているものです。

そのとたん、女の子は視力を回復します。その女の子がみたものは、フィアンセが他の女の子といちゃついて、自分と婚約していたのは金目当てだったという「事実」。

母子「一体」の万能感というのは、このようにして崩壊します。視力を失っていたときのエルザにとって、フィアンセ、自分、そして世界というのは申し分なく、その境界すらあいまいなままです。そもそも、自分がいて、フィアンセがいて、世界の他の人々があって、というよりも、世界全体が自分自身のようなものなのです。

それはちょうど、母がおしっこしてと望めば、自分がトイレに行きたくなって、自分がお腹が空けば、母がおっぱいを飲ませてくれるという、どこからどこまでが自分で、どこから外が自分でないのか、分別しがたくする必要もない世界なのです。これを「近親相姦的に閉じた世界」と言ったりすると、気持ち悪くて理解しがたくても、エルザとフィアンセがそういう関係として描き出されていた場合、読者ずっと呑み込みやすくなるでしょう。

しかしエルザとフィアンセは切り離されてしまいました。去勢です。エルザは世界から去勢されてしまうわけです。それは誰がやったとか、どうして行われたといったことではなく、そのように自覚してしまった瞬間から、元に戻すことができなくなる出来事なのです。

その時にいきなりエルザは、「自分」対「世界」というそれまでは不要だった視点を得てしまうのです。しかも「世界」と一体だったはずのフィアンセは、「自分」をまったく欲しておらず、その欲望は他を向いていることもわかってしまったため、「世界」は「自分抜き」でも完全に成立することが一気に把握されます。「去勢」が起こった瞬間、それまで「万能だった世界」から切りはなされ、「世界」も「自分」も同時に一挙に失ってしまうわけです。

これは「トラウマ」となって当然です。フロイトによれば、これが起こった時に、それ以前、つまり母子一体で万能感にあふれていた前エディプス期の記憶は抑圧されるわけですが、そのきっかけとなったのはエルザが「視力」を得たこと、つまり子どもが本当の意味で「言葉」を得たことなのです。

エルザのフィアンセはあまりにひどいヤツのため、この物語は救いようもなくなっていますが、エルザは「前エディプス期」を失う代わりに「客観的視点」を獲得できています。それが視力だというのはいかにもですが、私たちの場合にはそれがしばしば「言葉」であるはずです。

そもそも本当に「母子一体」であった頃、つまり自分が母胎にあった頃というのは、母と私の間で「言葉を交わす必要」が原理的にありません。フロイトの言っていることというのは要するに、私たちは母体から出てもしばらくはそういった状態にあるのであって、言葉を交わしているように見えても、実際に言葉はたいして機能していないわけです。

その事態が変わるのは、自分が「母子一体」から切り離されるとき。たとえば母親がどこかへ行ってしまうとき。「一体」なら自分だけが取り残されるなんてことはないはずなのに、現実にはそういうことがいくらでもあり得ます。母は、フロイト的には父親のペニスを必要としているのかもしれませんし、それこそ父親の「お金」を必要としているのかもしれませんし、ありきたりですが「オシゴト」に行っているのかもしれません。

私の望みはママの望み。というのであれば、「私」があずかり知らないのに「オシゴト(その実体はまったく不明)」に行ったりするはずはないでしょう。ということはつまり、いま母親がいなくなったのは偶然たまたま何らかのアクシデントというのではなく、構造的に今後いくらでも起こりうる出来事だと考えざるを得なくなります。エルザのフィアンセが、その時たまたま他の女の子とアクシデンタルにいちゃいちゃしていたわけではなく、必然的にそうしていたのだとエルザが気づくのと同じように、子どもも気づく日が来るのです。

「オシゴト」の存在を思い知らされた子どもはエルザと同じように、「母子一体」の世界からいきなり切り離されてしまいます。自分をこそ唯一絶対に必要とすることがママであったはずなのに、実はぜんぜんそういうわけではなく、そもそも自分を必要としてもいないのかも知れないということが、一気に明らかになってしまう。これがトラウマになり、以前の記憶など封印してしまう(あるいはほぼ同じことなのですが思い出す理由を失う)というのがフロイトの説明です。

しかし子どもは、これもエルザと同じように、客観的視点とともに「オシゴト」という言葉をも得ます。いずれは、「ママにはオシゴトもヒツヨウなのだ」という自分を納得させる観点を確立できるでしょう。私たちが「自分の存在」を否定されたときにできることとは、こういうことなのではないでしょうか? 

必要なのは客観的視点と、自分を納得させる言葉なのです。

ひどくあからさまなダブルバインドについて

あんまり書いても面白い話ではないんですが、いちおう書いておこうと思いました。

世の中には、不思議なダブルバインドがそこかしこに放置されているものではありますが、以前からずっと気になっていたのが、親が子のセックスを望まないくせに孫を欲しがるという理解に苦しむ態度が散見されます。

あなたの奥様は聖母で子どもはコウノトリが連れてきたんですか。

見たくないものは見たくないし、「いやらしいこと」抜きに、めでたい結果だけが「自然と」訪れたらいいなと漠然と願う、というのは理解できます。

しかし現実にそんなことはあり得ない、ということは知っているはず。

家の中で「うちの子」がセックスするのは耐えられない。職場で変な人とラブホテルに行くのもいただけない。お見合いはいまどき流行ってない。それにしてもウチのムスメはどうしてお嫁に行かないのかしら? 孫の顔を早く見たいのに・・・。

へえ?

他人はたしかに私の鏡である

ファンタジーにもよく「鏡」というものは登場します。

あれは不思議なものですから。

人形劇にアレンジされた「くるみ割り人形」は主人公のクララが時計の中に迷い込むお話ですが、鏡の中に迷い込む作品も多く、日本ファルコムの「イース」などはゲームであのファンタジーを上手に表現しています。

 

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先日、プライドについての記事を書きましたが、これとよく似た話に「自意識過剰」があります。同じではないのですが。

自意識過剰もプライドと似て、他人の持っているであろう「私のイメージ」を修正するべく迫るところがあります。遠くから近所の人がやって来たとき、「下手なアイサツするからといって、それだけで私を判断されては困るんだよ」などと心のどこかで警戒を始めるのは、即興能力に自信がないということでしょう。

こういう類のことを延々書いていたのが酒井順子さんだったと思います。

自意識過剰! (集英社文庫)

自意識過剰! (集英社文庫)

 

 ベランダの取っ手を気持ちよく拭いているだけの人の「心の中」を読んだ気になって、「あの人、またあんな格好して」などという心理ナレーションを勝手に挿入しているのは、他ならない自分自身の頭脳です。他人に見ているその「心理」は、「私の私に対するリアリティある批評」なのです。

そういう意味で、特に自意識の強い人にとっては、他人をいくら見ても他人を見ることはできず、全部自分の心を映し出すだけになってしまいます。ちょうど、いくら鏡を見てもその素材であるガラスを見ることはできないで、ひたすらうつっているものしか意識できないようにです。

私は仕事から脱線する

タスクリストによれば「今すぐ寝て、明日の朝早く論文を書くべきである」とあるとする。
 
しかしオリンピックのエキジビションが今テレビでやっていて、それを見るまで寝たくない、とする。
 
どうすればいいのか?
今すぐ寝るべきか?
それともテレビを見た方がいいか?
これはある種の人にとっては決して簡単に判断できる状況ではない。こういう時私たちは「質問を変える」ことで切り抜けるというのがダニエル・カーネマンの指摘する「ヒューリスティック」だ。
 
困難な問題に直面したとき、私たちはしばしばより簡単な問題に答えてすます。
 

 

ファスト&スロー(上) あなたの意思はどのように決まるか? (ハヤカワ・ノンフィクション文庫)

ファスト&スロー(上) あなたの意思はどのように決まるか? (ハヤカワ・ノンフィクション文庫)

 

 

タスクリストがあったとしても「脱線する可能性」はいくらでもある。エキジビションを見てしまって夜更かしすることを強制的にやめさせる力は、タスクリストにはまったくない。
 
「心が洗われる気持ちがした。こういう気持ちになれたんだから、エキジビションを見てよかったのでは?」
 
これが「答えるのに簡単な質問」である。ここでは質問のすり替えが起こっている。だが場合によっては自分の問題をすり替えたことに気付きもしない。そのこともカーネマンは重ねて強調している。「問題を置き換えたことに、たいていは気づいていない。」
 
ここでよく「タスクリストに縛られる生活には自由がない」という議論に発展しがちなのだが、これも問題のすり替えである。「論文を書く」のも「エキジビションを見る」のもどちらを選ぶのも「自由」である。刹那的にやりたいことをやった方が、より自由度が高いという話にはならない。
 
問題は自由かどうかではなく価値観である。心が洗われる体験と、仕事を締め切りまでに間に合わせる体験と、どちらかを捨てなければならなければどうするか? このいずれを選ぶかは、価値観によって変わる。だから「7つの習慣」などでは、難しい問題に直面した際、統一した価値観にしたがって判断ができるように「ミッションステートメント」といった尺度を定めたりしている。
 
だがほとんどのケースにおいて「作家としての私はより多くの読者に喜びを与えることを理想としているから、ここではエキジビションを見ないでおく」といった判断の仕方はしないものである。やはり「心が洗われる感情体験はいいものか?」という答えるのに容易な質問を用意する方を好んで選ぶ。
 
私はタスクリストがあっても、ミッションがあっても、脱線を防ぐことはできないと思う。可能なことは脱線し続けている自分の軌跡を追うことだ。そうすることによって自分が道に迷っているということを自覚できる。
 
カーネマンは質問のすり替えについて書いている章(第9章)の冒頭でこう書いている。
 
脳の働きで驚くべき特徴の一つは、めったにうろたえないことである。
 
うろたえるべきなのだ。
 

私が「本を書く」などという長期仕事ができるのは、自分に自信がないからではないか

心理学的というよりは「見ていると」なのですが、

  1. 「自分に自信がない」という人はおおむねプライドが高い
  2. 本人は「自信がある」とは言わないけれど、ありそうに見える人はあまりプライドにはこだわらない

という傾向があるように、思います。

「本当の自信」とか何とか言いますが、自信があるように見えるのは、おおむね「即興的」な自己表現が上手な人に見えます。それが「本当に」うまいのかどうかは知りませんが、それが「本当に下手だ」というタイプはいます。私は明らかにそうです。

即興的な人間関係、即興的な自己表現(ブログやSNSはここに含まれるでしょう)が上手だと、気持ちよく生きていけそうです。良好なフィードバックを即座に得られるから、だいたい何をしていても気分がいいはずです。

反対に、即興的にはうまいことが言えなかったりする場合(あるいは自分でそう思い込んでいる場合)、「今に見てろよ・・・」となるでしょう。自分で言っていて、とてもめんどうくさい感じがします。

「今に見てろ」というのはつまり、自分に対する評価について、他人に修正を迫ろうというわけです。しかも出世払いと来ています。面倒くさがられるのは当然です。

今仁見手郎の秘密復讐計画表

即興的な自己表現が下手だろうと何だろうと、人は自己評価を高めて生きていきたいとどうしたって思いますから、即興がダメなら長期計画になるのは理に叶っているでしょう。「そうかい。みんなはそんなのがいいのか・・・だがいつか・・・」というのはつまり、「自分に自信がない」(即興的な評価を得られない)人の発想なのです。

この恨みがましさが色濃く長続きするほど、長い酷評にも耐え、孤独にも耐え、「自信がある人」の想像力ではひねり出せそうもない長たらしいものに注力できる、といったら、救いがありそうではないですか?

僕らには新しい新聞が必要だ

そもそも僕らとは?問題が尾を引くわけではありますが。

実際のところ「新聞」と銘打ったのにはもちろん深いわけがありますが、本来この用途では雑誌が穏当なところでしょう。

先日、次の本を買って読んだときにつくづくと思ったのです。

 

世界一やさしい ブログの教科書 1年生

世界一やさしい ブログの教科書 1年生

 

 

染谷さんに比べて私が「ブログ」というメディアを少しもうまく扱えていないのは事実ですが、「教科書」が欲しくてこの本を買ったわけではありません。なんでもいいからブログについての話題に触れていたかったのです。

 

ブログを10年続けて、僕が考えたこと

ブログを10年続けて、僕が考えたこと

 

 

もちろんこの本はあります。でもこの本は読了してしまっていましたから、未読の本を読みたかったのです。

朝、新聞を読むという習慣を失って久しい。しかし新聞は、ある時期にはたしかに面白かったのです。いま新聞はその役割を終えたとか言いたいのではありません。しかし、たしかに世の中にとって喫緊のテーマであっても、私にとってそうであるかがうたがわしいにもほどがあるようになってずいぶん経つうえに、私の興味については隅っこのその隅っこにすらめったにのらないものに毎月毎月お金を払う気がしないのです。

 隣国でミサイルが発射。たしかにそれは重要ですね。でも私にとっては・・・私の頭が少しおかしいのかもしれませんが、Evernoteがサービス終了!(いつまでも虚構でありますように)というニュースに比べれば、ある意味では重要とは言いがたいのがミサイルネタです。

自分向けにRSSのTodayをなんとしても「自分用新聞」に仕立てようとしてずいぶんになりますが、どうもその試みは成功していません。ニュースは相変わらず多すぎるし、新聞のように「ほどよく」まとまりきらないのです。

連日のようにライフハックネタを提供してくれ、情報整理についての「社説」が深刻な調子をおび、「神の声は民の声」の欄にはPV至上主義を揶揄したようなコラムが載っている。そういう新聞を私は読みたい。政治ネタはそうですね。よほど大ニュースでないなら、最終面にいちおう掲載されていて、偏向としてはうっすらリベラル寄りなのがいいかな。

 

この自律神経失調症めいたのは結局パソコン依存のせいかと憂鬱

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まだあまりちゃんと調べてませんが、思い当たる節ありで。

そもそも、最近なんだか更年期障害めいてきていて、そういえば母がそうだった、女性ならではのもんではないのかとか考えつつも、自分も歳をとったとおもいしるわけです。

そうはいっても、仕事でMacやらiPhoneやら使わないわけにいかないので、何とかその時間を短くして、あとはムダにイライラしないようにするくらいしか、ネットみただけでは思いつかないな。

そういうわけで昨日温泉に行ったりしてみたのですが、呼吸に気をつける、か。

まだしもKindleとポメラの画面は大丈夫なので、(考えてみるとなぜポメラは大丈夫?)そのへんに多少光明も見いだせそうではありますが。

仕事を一人だけで仕上げるのはおそろしく難しい

私には、いまだに漠然とした情念のようなものを抱えつつも、あまり手を出しにくい分野があるのです。KDPです。もうとっくにやっているべきことなんですが。

昨日、出版社の方と新企画の打ち合わせをしている間、ずっとこのことがアタマにあったのです。企画の打ち合わせも、編集さんによる校正も、編集さんへのいいわけも、なにもかもがないKDPの何という難しさ。

大学へ行ったのは彼女を作るためだが大学構内では彼女を1人も作れなかった問題

このブログで、小見出しを使ったのははじめてではないでしょうか?

さておき、もう自分ではいい飽きていることとして、私は大学へは、「彼女」を作りに行きました。英語学科という学科を選んだのも、第一義的には女子率が高いというだけの理由でした。

「彼女」がそんなに欲しかったのは、もちろん性愛的な理由も大きいのですが、いま思うと

  1. 「彼女と一緒」でないと格好のつきにくい活動をたくさんやってみたい
  2. 起業したい

ということだったと、いまならわかります。しかも1と2は、当時の私の中では、リンクしていたのです。

たとえば私は、少なくとも当時は、「彼女と一緒」でないとテニスサークルなんてやってられないと思いつつ、サークル活動というのはしてみたかったのです。

そういう自己肯定感が、底辺系に低い人間としては、異性から承認されるということによる効果は、おそらく絶大と思えました。その承認欲求を満たしつつでないと、新しいアイディアをビジネスとして世に問う、などということは、到底不可能に思えたわけです。

私が大学に入学した1993年というあたりは、Windows95前夜であり、いまならイメージできるライフハック系ITビジネスなどというものは、実質的に目に見えるところには存在せず、そんな曖昧模糊とした得体の知れないものを「ビジネスにする」などという情念は、自尊心の低い私にとって、盲目的(つまり恋愛的)で熱烈(つまり恋愛的)な賛同者(つまり彼女)の存在なくして、実行に移せない代物だったということです。

しかし大学で私が「彼女にできた」女性はゼロ名だったので、当然4年間何もせずに過ごすような形になりました。いま思うとこれでよかったのだという気もします。あの当時の私の能力とIT環境(というものはなかった)では、起業などしていてもただ「面白かった」だけで終わったことでしょう。

ただ、いまこんなことを思い出しつつ、昨日の打ち合わせに戻ると、自分がたしかに書けるものを書くということであっても、パートナーが居た方が圧倒的に仕事は進めやすいのです。むしろ当時の自分は「孤高の天才」とか「創造性は個性に宿る」といったことがらを、中二病的といって悪ければ実存主義的に妄信していたので、その時にすらパートナーが必要だと思っていたようでは、いま1人だけで仕上げられる気はまったくしないのです。

仕事のパートナーとかいうのは実のところ、発酵だとか化学反応だとかそんな説明はまったく必要なく、ただ、「相手が壁とか鏡ではなく人間である」だけで十二分だと思えるのです。

 

POWERS OF TWO 二人で一人の天才

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第41回のきばトークのこと

なぜか、すでに41回も続けてきているのきばトーク。

今日もまた、ほぼ40回にわたって付き合ってくださっている倉下忠憲さんとのトークでした。

 

 

今日の内容は、2人がどのくらいイメージを共有できているのかを探りつつの「僕らの生存戦略」について。

だいたい「僕ら」とは誰らなのか、その中に倉下さんと私は入っているのだろうか?

そして、「生存戦略」に沿って生きていけば、少なくとも平均寿命の15年手前くらいまでは死なずにすむのか?

といった話でもないわけですが、生きるってことは、いろんな意味で難しいと思うのです。難しくないという人も多いかもしれませんが。

いまの時代がかくべつ難しいとも思えませんが、いまの時代にはならではの難しさがあります。

私はちなみに喋っている間中、次の本のことが念頭にありました。

 

<いま・ここ>。何百億人の個人が、生まれては、消えていった。

その活動の痕跡としての、現在の成果。

僕が一個人としてそこに<参加>すること。

「歴史」は、自分の外を流れていく何かではなくて、自分自身がその一部であるもののはずだ、「宇宙」のように。

僕自身が宇宙の一部であり、歴史の一部なのだ。

 この地上で、この身体を使って、僕という素材を使ってできる、最大限のことは何だろう

 

 

「ひきこもり」だった僕から

「ひきこもり」だった僕から

 

 

こういうことと、いったい「ライフハック」なんてものをどう折り合いをつけられるというんだ?!と思われそうですが、折り合いなんか付かないでしょう、常識的に考えて。

だから私はライフハックに、なるべく絞るべきだと思っているわけです。

Wunderlistは終わらせないで欲しい

gigazine.net

 

という、ぜんぜん心躍らないニュースが飛び込んできました。

私はWunderlistをタスク管理ツールではなく、カタログ管理兼ネタ帳として使っているだけのため、そこまであれこれ言う資格などないとは思うのですが、ちょっとだけ。

タスク管理としては、タスクシュートになれない以上、私としてはWunderlistでは無理ですが、それはそれとしてWunderlistは使いやすいと思います。

まず、無料なのにこれ1つでたいていのことがやれます。いつものセリフで恐縮ですが、当たり前のことが当たり前にできるツールは、優秀です。

左サイドにフォルダとプロジェクト管理、中央にタスクリスト、右サイドにはタスクの詳細とサブタスクやメモ欄、という配置はきわめて常識的でわかりやすいです。

ユニークなインターフェースもそれが必然ならいいのですが、通称をわざわざ微妙に変えてあるとわかりにくくなるだけです。

それにWunderlistは同期がちゃんとしていてちゃんと終わります。多くのOSにも対応していますし、ブラウザ版も問題なく動きます。そして私としては重宝しているのが、ウェブクリップとしてタスクを作りだす機能。「カタログ」として使っているため、「この本いつか買おう」と思ったら即座にウェブクリップできるのは、とても便利なのです。

To-Doはそのへん、どうなるんだろう? いくつかの記事を読む限りでは、基本はさほど変わっておらず、やや機能が減らされているだけに見えるので、やるほうとしてはこの改変に意味はあるんでしょうが、私にはほぼ無意味としか。

いっつも思うことですが、タスク管理ツールを開発している人のなかには、自分の作ったツールではないツールで、仕事をしている人、いません?

「うろおぼえ」をいかに活用するか

娘も小学校2年に上がり、「漢字テスト」などというものを持ち帰ってくるようになったので、「漢字は書き取りが一番難しい」という当たり前のことを思い出しました。

認知心理学で記憶想起について、一般に、想起を容易にするには、想起トリガーやマッチングのヒントを用いるとよい、というアドバイスがあります。

たとえば、「挨拶」という漢字のテストは、「アイサツ」だけを手がかりにするのがもっとも難しく、次の中から選べというのはかなり簡単な部類に入ります。

娘も当然のことながら、1〜2年の漢字がようやく「書ける」程度ながら、「読む」だけなら小学校6年相当に入ってきています。

21世紀以後、漢字が「書ける」ことがはたしてどれくらい必要なのかという議論がすでにあるはずです。私が苦労なく現代日本語の文章を打てるのも、ようは「変換」しているからで、漢字変換は「読めればできる」ものです。

ここに、ライフハックが認知心理の原理に沿っている典型的な事例があります。私は「書くことができるほど漢字をしっかり覚えていないが、マッチング検索なら容易にできるくらいにはうろ覚えできているから、機械はそれをサポートすればいい」のです。

シゴタノ!の大橋悦夫さんは、そういう「うろおぼえを活かすライフハック」を考え出す能力が抜群で、最近の記事からもそういう性質が強くうかがえて、大変面白いのです。

 

たとえ自分で決めた方針であっても、そのすべてを覚えていられるはずがありません。

また、方針を作れば作るほど、いくつかはお互いに矛盾する組み合わせも出てくるでしょう。脳はそういった矛盾があると、本人も気づかないうちにその時の自分(ここでは脳ということになります、ややこしいですが)にとって都合のいい方を残して、他方は忘れたことにします。

こうして、どんどん思考回路が書き換わっていくので、「これは重要だ」と思えた方針は脳の外にバックアップして退避しておく必要を感じています。

言ってみれば、思考のブックマークです。

そのための仕組みがタグ「Setting」というわけです。

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