佐々木正悟のライフハック心理学

ビジネス書作家・佐々木正悟の公式ブログです。なるべくならお役立ち情報を出していきたいと思っています。

有料のウェブマガジンCHANGESをリニューアル中です

2020年を迎える前に、新執筆陣を迎えたり、新連載をスタートすることによって、CHANGESリニューアル中です。

言いたいことやまやまのやままさんにはすでに、新連載を着々と更新中です。

全連載の第1話はすべて無料で読めますので、ぜひどうぞ!

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そして、今月、五藤晴菜さんの新連載がスタートしました。

テーマはiPadOS。私がイラストをもとに自分のiPadを使っていろいろ学習中。そのプロセスを記事にしていきます。

 

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さらに、works4Life ののみこさんを新連載の執筆陣に加わっていただきました! テーマはもちろんGTDです。

共催のGTDセミナーも12月7日に実施します。よろしければ年内最後の「書き出しタイム」にご参加ください!

www.works4life.jp

 

さらにさらに、最初期の執筆陣の岡野純さんが新連載をスタートします!

 私自身も新連載を計画中です!

これから新しくなるCHANGESこれからもどうぞよろしくです!

野の医者は笑う:心の治療とは何か?

 

野の医者は笑う: 心の治療とは何か?

野の医者は笑う: 心の治療とは何か?

 

ブログタイトルを書籍タイトルと一緒にするというのは、個人的には避けたかったのだが、迷いに迷ってこうしてしまった。

もうこれ以上迷うのは時間と労力の無駄だと思えてきたのだ。

本書はとてつもなく面白い、とは昨日書いたことだ。筆者は大変な能力の人だと思う。

本書の魅力は多岐にわたりすぎるくらい多岐にわたるし、しかも私は「臨床心理学」というものがオタク的に好きなため、でも臨床心理士になれそうもないため、こういう本はめっぽう楽しめる。

ということを抜きにしても本書は間違いなく面白い本である。

その面白さを支えている大事な要素としてミステリー仕立てのふうを装っている、小説風のそれでもルポなのである。

だけではなく、きちんとした学問的な分析が加わっている。しかも一定以上の説得力がある。

つまり必要なものは全部入っていて、ミステリーなのだ。

ミステリーというのは不思議なもので、「謎」がオカルトであってはならないから、小説の中身は写実的であるほうがいいようだが、面白い作品はたいていそうではない。

たとえば森博嗣の作中人物は名前からして奇妙だし、ありそうもない雰囲気がある。何か特有の薄気味悪さに嘘くささがつきまとっている。

現実なのに、それと同じような嘘くささとちょっと気味の悪い世界が、「野の医者」の世界にはみえる。つまりスピリチュアルとヒーリングと占いと、それからポップ心理学の世界。

臨床心理士であるのに(つまりこの作中では「探偵」である)、作者は「野の医者」の世界に分け入って、最初は冒険のつもりで、だんだんミイラ取りがミイラになっていくのだ。

ファンタジーの世界にとりつかれて戻ってこられなくなるような魅惑と気味の悪い世界。舞台は沖縄だが、ほとんど現実感がない。ヒーラーばかりが登場する。

しかし作者は実際のところ、断じて正気を失わない。失っているように見せるけれど、実際には失っていない。そして、少しずつヒーラーの大物、元締め、黒幕へと迫っていく。最後の最後の大物は「X氏」などと書かれていた。

後半は疾風。これもミステリーの特徴だ。どんでん返しが続く。大物に会ってもそれほど「スピリチュアルのミラクル」は現れることなく肩すかしを食わされるが、一方で河合隼雄だの箱庭療法だのが登場するにいたり、ますます「ヒーリング」と「臨床心理」を区別する線があやふやになってくる。

そうこうするうちに、読者は作者に感情移入してしまうので、だんだん読者としては「ミラクル」に期待してしまうのだ。

しかしミラクルが起こるということは、スピリチュアルの勝利である!

ところがその結果、作者は臨床心理士として大学に就職がかなうという話であって、それは埼玉県の新座にある大学と来ている。じつに大きな、皮肉な、そして退屈なミラクルである。

こうやって沖縄ヒーラーという「虚構」と「現実」を行きつ戻りつしながら、さらに読み進めるほど、謎に肉薄していく感じがせまってくる。「ヒーリング」とはなんなのだろう? インチキなのだろうか? 臨床心理は「正統派」であって、スピリチュアルは集金マシンなのだろうか?

お金を取る方はどう考えているのか? お金を払う人はだまされているのか?

物語も終盤になって、「経済力をつけること自体が癒やしになる」といったような話を、当然のように語る大物まで登場してくる。作者だってそうではないかと。だって、大学で臨床心理の教鞭をとるという経済的基盤を持つと、ストレスから解放されたでしょう?

だが少なくとも作者は「だまされない」。ミステリーで探偵が殺されてしまったり、現実に戻ってこられなくなってしまったら、物語は成り立たない。少なくとも読者はそこに期待する。

でもそれは、また戻ってしまうが、結局なんだかんだいっても臨床心理が正統であって、「前世療法」は・・・、というものなのだろうか。

この本を最後まで読むころには、もうその結論だけ持ち帰って「現実に戻る」ことは、ふつうの読者に無理になっている。ヒーラーに癒やされる人も、現実には存在する。

それはたまたまかもしれない。ヒーラーだって奇蹟は起こすものの「身内」との関係は必ずしも理想的なものになっていない。(身内は難しい、という言葉が出てくる)。所詮は経済、お金かもしれない。

しかし、作者の生活もまた、「経済に癒やされる」のだし、作者の家族関係も「理想そのもの」というわけではなさそうなことが、冒頭に描かれていた。スピリチュアルは「たまたま」で、臨床心理は「再現性がある」のか?

結局、心の治療とは何か?

この謎は、どう解き明かされるのだろう?

 

自分の欠陥を正しく指摘できるような「他人」は存在しない

 

野の医者は笑う: 心の治療とは何か?

野の医者は笑う: 心の治療とは何か?

 

とてもとても面白い。

こんなに面白いと嫉妬したくなってくるほど面白い本である。

伏線も巧みに張られていて、読者サービスも盛りだくさんである。こういう本を書きたいものである。

数度は紹介することにしたいので、今日は、私たち物書きや、物書きならずとも悩ませてくれる困った存在のことにとどめる。

「超自我」だ。スーパーエゴである。

 

このスランプの理由は実ははっきりしている。私はビビり始めているのだ。   

書き進めるにしたがって、朝起きた瞬間に恩師たちの苦虫を噛み潰したような顔が浮かぶようになった。  

「人間ああなったらおしまいやな」  
どこからかそういう声が聞こえてくるのである。これが怖ろしい。

精神分析の世界では、そういう自分を見張る自分のことを超自我と呼ぶ。

 

 

 この引用部分だけでも、十二分に面白い

うまく茶化されている。

ばかばかしい話なのだ。

私の頭の中にも、超自我はいる。以前はもっと強力な存在だったが、最近はこけおどしだということがばれつつある。

超自我というのは、至る所で、あらゆるやり方で、あらゆる分野の人を悩ませています。

たとえば私の「盟友」であるやままさんは、じつに超自我に悩まされる名人(?)です。

あんまり上手ではない文章

が、流通しているわけです。きっと超少額なギャラなんでしょう。とはいえこの文章に対価が発生しているのか!と驚かされることがあります。

なんとも、もやもやします。彼らはなぜライターを名乗れるのだろう!?プンプン!

しかしこの気持ちは、またしても私の特技である「ガマンの押しつけ」が原因なのではないかという気がしてきました。

www.yamama48.com

もちろん彼女の超自我が、怒っているわけです。

超自我は常にえばっています。そして万能です。何を言ってもゆるされます。常に上から目線です。そして当人のことを何もかも知っていて、もっとも弱いところを、徹底的に攻撃してきます。

「そんなこともわからへんのか!」  

すいません、超自我さま。  

「ドイツ語版ユング全集を写経して、出直してきい!」  

すいません、ドイツ語は親友に答えを見せてもらってようやく単位が取れただけなんで、ほとんど何もわからないんです。  

「バカモン!」

 

野の医者は笑う: 心の治療とは何か?

野の医者は笑う: 心の治療とは何か?

 

波平・・・。

なにしろ、自分の中にいて、自分の見張り番だけが仕事なのですから、気楽なものなのです。

私は超自我と付き合う上で、付き合いたくなんかないのですが付き合わざるを得ないので付き合う上で、こいつをとにかくちゃんと認識し、絶対に外部に投影しないように、それだけは気をつけるべきだと思っています。

自分の親のことを超自我だと思ったり、仕事の関係者を超自我だと混同すると、ろくなことにならないのです。

「やる気が出ない」のか「実行に困難を感じている」のか

このふたつは違います。

よく「やる気が出ない」という言葉で、両方の意味を兼ねさせてしまうことが多いようですが、私は「実行に困難がある」方が圧倒的で、しかも人を悩ませていると思います。

ひとつの「困難そうな仕事」があって、それを先送りするとき私たちは「やる気になれない」というのですが、「この困難そうな仕事に手を出すのが気持ち悪い」という方が真実に思えます。

やる気が問題であれば、たとえばお金がよければやる気が高くなるかというと、それはないと思うのです。

ただ、お金がたくさんもらえるなら、もらえたときのうれしさが大きかったり、「お金がもらえるから!」と自分を鼓舞する気になれるだけで、やるときのイヤさ加減に違いはないと思うわけです。

だから実行に困難を感じているということがいちばん問題です。

この問題はしかし、「実行に困難を感じている」のは自分の内面で、現実の仕事自体にはそこまで困難さがないと判断できるまで、問題であり続けるに過ぎません。

タスクカフェ第100回が終わりました

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タスクカフェ第100回が終わりました

100回目で大橋悦夫さんが

タスクとアイディアを分ける

話をされました。

この中で大橋さんはアイディアを卵、タスクをひよこという比喩を使って

卵が卵のままならば扱いやすいが、ひよこになったらケアが必要になるので、アイディアは、しかるべき時が来るまで「開封しない」

という話をしました。

何もかも一度には、できないのです。

タスクカフェも、最初から100を目指していたら、100回できなかったでしょう。

一つ一つ、やれることからやって、止めなければ100回できる、かもしれないのです。

 

どうしてもやる気がわかないときにチェックするべき考え方

「絶対に、重要な課題をきちんとこなし、周りの人に認めてもらわねば。そうでないと、私は嫌われ者になってしまう!」

→このようなとき、深刻な憂鬱、不安、パニックや自己嫌悪が生じる。

 

現実は厳しい でも幸せにはなれる

現実は厳しい でも幸せにはなれる

  • 作者: アルバート・エリス(Arbert Ellis),齊藤勇
  • 出版社/メーカー: 文響社
  • 発売日: 2018/08/31
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
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 エリス博士はこの本の中で、他にも2つの「思い込み」があって、人生を暗いものにするのはだいたいこの3つの思い込みで説明できる、といいきります。

上の文章は「いろんなケースに当てはまるべく抽象化」されている上に翻訳と来ているので、なんだかしっくりこないように思えるかもしれません。でもほとんどの「やる気が出ない」をこれほど完全に説明できている文章は少ないです。

重要な課題、つまり仕事や資格試験などを「きちんとこなす」のは素晴らしいことですが、しかし、それが仮にまったくうまくいかなかったとしても、十分に真摯に取り組んだのであれば、たぶん好きな人にも大事な人にも「失敗が原因で相手にされなくなる」ということはまずありません。

これは、他人のことだと簡単に理解できるのですが、自分のことだととても理解できないという人が少なくないものです。

「周りの人に認めてもらう」のも大事ですが、「周りの人」が誰なのかは、なぜか具体的ではありません。すごく漠然としているのです。

その結果としての「深刻な憂鬱、不安、パニック」というのは大変な問題です。少なからぬ場合はうつ病を意味して、よくても適応障害であり、食欲不振、不眠、そして希死念慮となりかねないのです。

冒頭の文章に欠かせないキーワードが「絶対に」です。一見気楽に振る舞っているようでも、「なんとかなる」とつぶやいているようでも、「仕事だけが人生じゃない」と口にしていても、どこかで深刻に思い悩んでいて、「何が何でもこれだけは!」という譲れない一線があって、しかもそれがうまくいきそうにないときに「パニック」が起きるのです。

便宜上、と思われるでしょうが、ふたつの価値観を並行して意識したい。

  1. 自分の価値は絶対不変で変わらない。課題をうまくこなしてもそれ以上上げようがなく、失敗しても落ちることはない
  2. 相対的な価値は変化する。かけっこで1位になれば、2位よりは評価される。ただしこの評価は常に相対的で、分野ごとにきっちりと限定されている

これはきれい事でもなければ理想主義でもありません。むしろリアリズムだと思うのですが、どうでしょう?

仕事には真剣に取り組むべきです。かけっこと同じです。しかし仕事が完全にうまくいこうといくまいと、その評価はかけっこと同じなのです。

本質的にやる気が出なくなりかけているときは、上の1と2の価値を取り違えています。その結果が冒頭のエリス博士の引用のようになるわけです。

これは、シンプルな話なのです。

断らない力

以前、まったく逆のタイトルの本が大いに話題になったものです。

そこでいわれていたことは、おおむね理にかなっていました。

ということは

  • 基本的に何も断らない

というのはまったく理にかなってない話ではあります。

しかし振り返ってみると私は、こと「書籍企画」というものを私は、ほとんど断らずに来ました。

どうしても、どう考えても無理だろう、というのをのぞくと。

だいたい私が50も60もタイトルを連ねて来れたのは、べつに「売れっ子だったから」ではなく、本の企画をいただいた場合に断ることがなかったからに過ぎません。

  • 断ることも必要だ
  • 何でも引き受けていては「自分」を見失う
  • いつも忙しくてしては「チャンス」を逃す
  • お金のために仕事をしてはならない

いずれももっともな感じはするのですが、実際に書籍企画が来てみると、そういうお話は私の心にまったく響かないのです。

チャンスのために生きたりましてや「自分」のために生きたりするのは、お金のために生きるのに似て、たいして面白い気がしない。

しかし先日、自分が「グッドモーニングバイブス」でしゃべっていて考えたのは、「嫌わない勇気」(これも嫌われる勇気の方ではなくて)というのは意外に大事なことで、スルーしたりケアせずに済ませるのは簡単なことなのだけど、そうしてしまうと「嫌いなもの」を自分の世界に置き残すことになります。

私は、クモやヘビやゴキブリを真剣に嫌悪している人の様子を見ると、それらが全然嫌いでないのは、単なる運かもしれないけれど、まあラッキーだったなと考えることがあります。

私にとって「書籍企画」は「素晴らしいもの」でしかありません。

それがいかに素晴らしくないとものであるかを、賢い人から切々と訴えられても、「そう思えない」方がトクしているところがあるのです。お金にならなくてもトクだと思う。

なぜならこの世に「いいもの」が増えることになりますので。

ここをもう一押しして、倉園佳三さんのグッドバイブスそのままに、「あらゆることは実は書籍企画と同じように素晴らしい」と思えれば、この世には素晴らしいものごとだけしかなくなって、万事OK!なんですよねえ。

くったくたなのにこれから満員電車で1時間・・・

ということは残念ながら、私もしばしば遭遇します。中学は今思えばバカげたことに私立に通っていたため、いっつもこうでした。

とは言え両親には感謝しておこう。私もムスメがそうなるかもと思って初めてこれの意味を知りました。まさに子を持って知るなんとやら。

本題に戻り、くったくたなのに、これから満員電車で1時間。

最近は封印しましたが、間もなくMPはゼロ。HPはとっくにゼロ付近。そして満員電車です。

ここには、心躍るいかなる要因もありません。

こういうときには、「心の予備タンクから予備のエネルギーを下ろし」ましょう。

バカいってんじゃねー、そんなもんあるわけねーだろう?

ではちょっと、仕事に持っていく鞄を開けてみましょう。

なかにはどうしてか、前からずっと愛読していたコミックの最新刊が!まだ発売前のはずなのに!

これで満員電車1時間の間中、ずっと漫画に熱中していられます。だいぶ違う。私ならだいぶ違う。

そこにスマホでLINEの通知が入ります。

なんと驚いたことに、学生時代にずっとつきあいたいと思っていた彼(または彼女)から、今すぐ会いたいというメッセージ♥

まあそんな事はこれまでの人生になかったし、今後もないでしょうし、そもそもあっても怪しすぎて会いに行かない方がいいと思いますけどね。冬の東京湾の海に浮かび上がりたくなければ。

でもまあ、そういうことがあったということにしておきましょう。

最初とまったく同じように疲れているでしょうか?

そんなことはなく、元気でピンピンしているのでは?

こうなればもうマンガを読まなくてもいいのでは?

マンガを読んでもいいでしょうし。

「でもそれは、そういうあり得ないラッキーな出来事のおかげで元気になっただけじゃないか!」

といわれるでしょう。

それはそうです。

しかし私が問題にしたいのは、「あるわけがなかった」はずの「心の予備タンクの予備エネルギー」のことなのです。

MPもHPもゼロだったはずですよね。だったら、何があったって、元気になれるわけはないはずです。

でもおそらくそれは本当ではない。

では予備のエネルギーはあったということになる。

問題はそれを引き出せるかどうかだけです。

なぜなら、出来事は「外から」やって来たにせよ、エネルギーは「自分の中にある」わけですから。

心理的緊張を「転用」しない

モチベーションが低下した状態から再びタスクの処理に戻る場合ですが、邪魔者が山ほどいると思います。

机の上は片づいていないし、メールは返していないし、洗濯物も溜まっているでしょう。

それらに触ったら終わりです。わかりますね?

 

発達障害の僕が「食える人」に変わった すごい仕事術

発達障害の僕が「食える人」に変わった すごい仕事術

 

 

わかります(笑)

先週に書いたことですが、

準備欲求というものはない

のです。少なくともそれは、本能ではありません。

もちろんメールに返信するにしても、たまった洗濯物を片付けるにしても、それらだって「本能」ではありませんが、心理的緊張が高まったとき、それを解消するだけの具体的行動をイメージしやすくはあります。

つまり、洗濯物を片付けることで、心理的緊張を解放してしまい、しかも時間を使う。こうして一日ずつ、〆切までの作業日数が減っていくわけです。

私は借金玉さんには申し訳ない気もしつつ、こういう心理的緊張状態が高まるということは、モチベーションが低下しているわけではない、と信じます。

やらないといけないと思っている気持ちが心理的緊張でしょう。

やらないといけないと思っているということはモチベーションはあるわけです。

 

私たちは、何かモチベーションの高い状態や、仕事のできる人の心理というものを、誤解しているのです。

気分よく前向きにやれるものとばかり信じている。

この種の信仰には、きっとウソがたくさん含まれているはずです。

心理的緊張そのものは、ただのエネルギーの高まりです。その解釈は、一瞬で反転するものです。

その緊張感の中で仕事を進め、しかも仕事がうまく裁いていけて、かつ結果も出そうに思えれば、「自分のモチベーションは高い!」。

逆に、その緊張感の中で、なかなか仕事が進まず、コーヒーばっかり飲んで気持ちが悪くなってきたら、上司の悪い言動が耳に響き始めます。

 

緊張状態が続く中、それをモチベーションが高いと思ったり、まったくわかないと思ったりは、常に揺れ続けているはずです。

私は、常にそれをモチベーションだと思うことはしません。むしろ、この状態である限り緊張が続いているというだけにとどめます。

先送りを避けるために必要なのは意志力ではなく意志

 

nokiba.hatenablog.jp

 

この記事の中で、次のように書いてみました。 

ひたすら一歩だけのことを考えます。するといつの間にかコンビニに着いています。
とにかくあらゆる行為(仕事だけに限らず)について、このように考えない癖をつけることで、かなり仕事の先送りというものをせずに済むようになります。

 ここの「考えない」について異論が出るのだと思います。

「考えない」のは難しい、ということです。

 

そこで私が提案したのは「しない意志」を発動するということです。 

何かをするのを止める、ということはまだ、科学的に否定されていない「自由意志」なのです。

 

ここでちょっと注意したいのは

  • 意志を発動するのであり
  • 意志ではない

というところです。

意志となるとどうしても

「私は意志力が弱いので・・・」

という話になりがちですが、「強い意志力」はこの場合必要はないしあまり役にも立たないでしょう。

「考える習慣」がついてしまっているというのならなおのこと、必要なのは「しつこく繰り返す」ことであって「強い力を発揮する」ことではないのです。

そしてなんといっても、

「考えるメリットはゼロだ!」

ということを、これまた繰り返し思い出すことも大事です。

ついつい何度も考えに走りそうになるでしょう。

考えに走って先を見通してしまえば、その遠い道のりに心が折れます。それを先送りというのでしょう。

つい考えそうになる。それを止める。

一度に力はいりません。難しいことでもありません。

でも何度もやり直すことが必要なのです。

「考えない意志力」を発揮することは可能

昨日の記事に対して、こちらのツイートの他、類似のご指摘をいくつかいただきました。

これはたぶん、たとえば「一定の(さほど遠くないとしても)距離を歩く際、先々の道のりのことを考えない」の「考えない」は、いいことかもしれないが「意志力」が必要だという指摘でしょう。

私はこの種の「意志力」を発揮するのは可能というか、意志の力にできるほとんど唯一のことは、これではないかという気がしています。

引用ツイートにあるとおり、「先の道のりだとかたいへんそうだといったことをつい考えてしまう」のは習慣です。クセのようなものです。

習慣は、報酬によって強化されます。

つまり、何かメリットがあるから繰り返しやる。繰り返すうちに習慣化するのです。

先がたいへんそうだと考えることには、どんなメリットがあるのでしょうか?

たいへんなことをせずに済むというメリットがあります。たいへんそうだから回避する。それがメリットです。

だから、回避ができないことについて考えるのは、デメリットしかないのです。

この点を確信すれば、「考えない意志力」を発揮することは可能でしょう。

「意志力」はちなみに、はたして自由に使えるものなのかということを、かなり科学的に検証したのが次の本です。

 

マインド・タイム 脳と意識の時間

マインド・タイム 脳と意識の時間

 

 著者によれば、私たちはたとえば「腕を上げよう」と思ってから「腕を上げる」ものだと思い込んでいますが、この思考→運動行為には常に、「自由意志」の生じる0.5秒前に「準備電位が脳内で検出できる」というのです。

つまり

 

  • 準備電位 → 腕を上げよう(自由意志) → 腕を上げる

 

という流れなのです。これで果たして「自由意志」と言えるのかというのが本で提起された問題です。

著者のベンジャミン・リベットは「行為を行う自由意志は私たちには存在してないかもしれないが、その行為を取り消す自由意志はある」という凝った問題提起を主張しています。

リベットが全面的に正しいと言えるかは、わかりません。

ただ、意志について実証科学的に踏み込んだ画期的な人ではあります。

そのリベットがいうには、私たちが「自由意志」を発揮するときには、何かを「取りやめる」ことだけだというのです。

このくらい理屈っぽくストイックな文脈でも「考えることを止める」のはおそら自由意志でできるのです。

一度は依存症になったものの、お酒を(飲むことを)止めることのできた人のなかには、やはり最後はどこかで「意志力」を発揮したと思うのです。

そのとき、「アルコールを摂るメリットがない」ということへの確信は、必要だったはずです。

  • 考えるメリットはないこと
  • 考えるのを止めるには意志力が必要だということ

昨日の記事には、このふたつが何より必須です。

 

何をするにせよ、やるだけのエネルギーは十分にある


「それをしようと思っただけで疲労感でいっぱいになる」

というもっともな反論を思いついたところで、昨日は打ち切りました。
ぜひ皆様も、こういう中途半端なところで作業を途切れさせるというライフハックをときどきは用いてください。

続きがやりやすくなったりします。

昨日の記事の途中にも書いたとおり、「それをしようと思っただけで疲労「感」でいっぱいになる」というのは「感覚」でしかないので、まずは

疲労感はわかないということにする

というのがベストなのです。
タスクを「実行」したら疲れるというのはいいのです。
しかし「考えただけで疲れる」のは断じて妄想だということにしておいた方がトクです。

こちらの本当の対策については、実行中にも「考え」を一切止める、というのがベストだと思っています。

一見つまらないことのようなのですが、これは大事なことです。
たとえば「住民票を支払うためにコンビニまで歩く」としても、決して「道のり全部」のイメージを持たないことです。

ひたすら一歩だけのことを考えます。するといつの間にかコンビニに着いています。
とにかくあらゆる行為(仕事だけに限らず)について、このように考えない癖をつけることで、かなり仕事の先送りというものをせずに済むようになります。

食事になれば、大概の人はこれがやれるし、やれる人は食事を楽しめるものです。

食事全部が「終わる」までに食べなければならない米粒の数だとか、残りの秒数などを意識して、「ああ食事は時間が長くかかるし面倒くさい」と思わない方が、食事はたのしいしおいしい。

もう一つがタスク管理の効用を活用するやりかたです。
タスク管理というよりもタスクログです。

ログといってもPDCAは絶対にやらないことです。反省したり改善したりしようとすれば、すぐにイヤになってしまうでしょう。

そういうことではなくて、ログを見るのです。1日でどれほどのことをしたでしょう。すごいものです。たいていは。
しかし、1日ごとに区切る理由はまったくありません。

1年、2年、5年でどれほどのことをしたか。
ものすごく膨大なリストがそこにはあるでしょう。全部「やった」ことです。なにをしたにせよ。

総エネルギーはどれほどになるのか。計り知れないほどです。
全部足しただけのエネルギーを私もあなたも誰もが使えるのです。まるで永久機関のようです。

どこかで「途切れた」と考えるのは不合理です。途中で1日でも死んだことがあるというなら別ですが、たいていの人はそうではないでしょう。

生きている限り、膨大なことがやれます。それだけのエネルギーを使い続けることができます。ものすごい量です。

住民税を払うくらい、おつりが来るに決まっているはずです。

先送りを防止するための具体的方法と気持ちの整理

昨日の続きです。要するに「気持ち」と「実際」の両面から攻める必要があるわけですが。またしてもTwitter引用からはじめさせていただくことにします。

ごめんなさい。いい具体例が多いのです(笑)。

まず「10㎏の荷物を抱えて歩いている(ストレスになる)」からさっさと済ませるという方法は、これでうまくいくならぜひこれで行きましょう。

うまくいっている限り、先送り対策はすべて有効なので、わざわざ変更する必要はないはずです。

これでうまくいかなくなりつつあるときには

  • 500gずつにわける

というのがいわゆる「小分け」であり、これでうまくいくことも多いと思います。

お風呂掃除をまとめてやるとじつに大変なので、気づいたときにこまめに

cyblog.jp

あらっておく、といったやり方が紹介されています。

ただ、これをするにはどうしても、「タスク管理的な何らかのツールか手法」が必要になります。頭だけでは、忘れてしまうからです。

500gずつでも負担に感じるときは、50gずつやります。負担感がすべての元凶ですから、感じないのがベストなのです。

ですが、引用にもあるとおり

  • 思い出した瞬間だけ100kgの荷物に押し潰されて身動き取れなくなる

ケースだったらどうしましょう。

実はこれ、10㎏だろうと100㎏だろうと、1トンだろうと同じことです。昨日も言及はしたことですが、比喩はあくまで比喩で、タスク自体には決して「重さ」も「負担」も何もないのですから

  • これは1トンのようにも思えるが、実は0グラムだ!

ということにしちゃえばいいのです。これができれば「思い出した途端に取りかかれる」でしょう。

そんなのは詭弁だといわれると思いますが、負担「感」はあくまでも感じ方であり現実ではないので、感じ方を変えることは誰でも自由にやっていいはずです。

世の中には、確定申告は誰だって先延ばししたくなる

 

という人もいれば

確定申告など全然大変じゃなくてそれどころか楽しい

cyblog.jp

くらいの人もあるわけです。

どちらが正しい感じ方をしているか、といった論争は不毛です。感じ方は感じ方であり、正解などどこにもない。

ただ、「確定申告に手をつけている前」に予感している「大変そう(1トンだ)」はどこまで行っても実態がないことなのですから1トンでも10トンでもないのです。0グラムです。それが事実です。

それでも自分は「それをしようと思っただけで疲労感でいっぱいになるんです!」という食い下がり方もできると思います。

また長くなってきたので、続きは明日書きます。

(というように、負担を感じる前に作業は打ち切ることもできるわけです。できないケースも無論ありますが、ブログならできます。小分けにするのは有効です)。

先延ばししない人なんていない。タスク管理はゲームです

ツイッターを引用するというのは気が引けます。ツイッターにはツイッターでお戻しするべきではないだろうか、という感覚的な抵抗感があるのです。

ただ、なんとなく長くなる予感があるので、ブログの方に書きます。

ここのところ書いていることなのですが

  • 食欲はあっても、料理欲というものはない(いま誤変換が起きましたから、事実そうなのです)。
  • 睡眠欲はあっても、ベッドメイク欲というものはない。
  • 排泄衝動は起こっても、トイレ掃除欲というものは生じない。

のです。

私たちは個人主義の時代に自由人として生きています。(個人差も異論もあるでしょうが、とりあえずそういう前提で進めます。これは政治の話ではありません)。

(常識の範囲内で)自分のやりたいことをしていいのです。

しかし、やりたくないこともやらなければならない人が多いはずです。

仕事の〆切は守れる。しかしそれは「〆切守り欲」のおかげではなく、嫌悪刺激(叱責や減給など)を回避したいという欲求があるからです。

何かの振り込みや、役所の手続きなどは、仕事の〆切よりもさらにハードルが上がります。振り込み欲も手続き欲もあるはずがない。

しかも、嫌悪刺激がやってくるのは遅いのです。(延滞料金などが発生するのは非常に強い不快感があると思いますが、ダイレクトに「叱責される」ほどではないという人も多いでしょう。また、ちょっと遅れて行って「役所の人に叱責されるかも(されることはまずない)・・」と思ってしまう人もいて、それは超過のペナルティより不愉快かもしれません)。

だからこそタスク管理/スケジュール管理しよう!という人もいらっしゃるとは思いますが、私はそうは思いません。それで問題が解決するとは、思えないのです。

私はこういう本を何冊か書いていますが、タスク管理で「先延ばしクセ」を修正できるかどうかは、ちょっと無理なところもあると思っています。うまくいく人もあるでしょう。

 

なぜ,仕事が予定どおりに終わらないのか??「時間ない病」の特効薬!タスクシュート時間術
 

 

 いまいちど引用させていただきまして恐縮です。

「決めたら決めた通りにできる」人などというのは、この世にいないに等しい、というのが私の見るところです。

「決めたら決めた通り」というのは「タスク管理」というものに対する、よくある誤解でもあります。「決めたとおり」にできるわけがありません。

ならばどうしたらいいのか?

まず「先送り」「先延ばし」という表現を「なるべく使わない」ところから始めるのがいいかもしれません。

私はこれをタスク管理している人間として「並べ替え」と言い換えます。

  • 昼食
  • 歯磨き
  • コンビニで住民税を払う

とあって、とりあえず「歯磨き」まではできたとして(これは歯をスッキリさせたいという衝動が起こるのでやれる人が多い)住民税など払いたいと思うことはまずあり得ない。

  1. 昼食
  2. 歯磨き
  3. ネットゲーム
  4. SNS
  5. 休憩
  6. 住民税を払う

このように並べ替えてみます。おそらく3〜5までは順調にいくでしょう。ゲームをして、SNSをして、また疲れてしまうので、そこで休む。

6はまたしても難しいかもしれません。

  1. 昼食
  2. 歯磨き
  3. ネットゲーム
  4. SNS
  5. 休憩
  6. 読書
  7. 昼寝
  8. 日の入り
  9. 暗くなって気分が落ち込んでぼーっとする
  10. 住民税を払う

9くらいまでは自然と進むでしょうが、10にさしかかるとまたしてもやりたくないと思う。

このように何度か「並べ替え」をしてみると、とてもよくわかってくることがあるのですが、こんな「並べ替え」はなんと言うこともないことです。とてもよくある、きわめて理解しやすい、ごくごく自然の行動でしょう。

なのになぜかだんだん仰々しくなってしまうのです。「先送り」という表現にはその仰々しさがよく見受けられます。(だから私は使いたくないのです)。人に「罪悪感」を持たせようとしている。「住民税の延滞」が「罪悪」でしょうか? とんでもないことです。

心のどこかで「最悪自分が困るか謝るか重い罰を受ければいいや」と思ってしまってる

冒頭引用の再掲です。私はここにとても引っかかったのです。 どうして「重い罰」をうける必要なんて、あるでしょう。〆切に間に合うギリギリまで仕事を引き延ばして、つい〆切を過ぎてしまう。

それは自然のことでしょう。そんなに悪いことであるはずがない。

払いたくないものを払わずにずるずるとマンガを読んでいるうちに、約束期日を過ぎる。非常に人間的で、非常に自然の行為です。「重い罰」には全く値しない。とんでもない。

私が「並べ替え」で「住民税」の前に並べ立てた、SNSやマンガやネットゲームや休憩/昼寝などはつまり、「リラックスを求めていることの象徴」という意味です。

なぜか緊張感が高くなりすぎている。「重い罰」とか「最悪自分が困れば」という表現に、それを感じさせられました。もっと軽〜い気持ちでないとやれない。イージーなことは、イージーにやるのがよいと思うのです。

先に、食欲はわいても、料理欲はわかない、と書きました。空腹で、いまにも倒れそうになってから、夜中に食材を買い出しに行ったら、誰だって暗ーい気持ちになるでしょう。

もっとイージーにやりましょう。料理は、だれーでもできそうな、それこそ小学生にでもやれそうなものを、ちょろっと、できれば満腹時に3分くらいかけて、作っておいた方がラクでイージーなのです。

それが「タスク管理」では「タスクを小分けにする」などといったあいもかわらず仰々しい表現になってしまうわけですが、緊張感は極力無縁にしておきます。

「決めたら決めた通りにできる」人などというのは、この世にいないのです。私はタスク管理していますが、そんなできた人間でも立派な人間でもありません。

雨の中、傘を差して、住民税を払いに行くくらいだったら、FANZAで動画を探している方がずっと気持ちよさそうだと思うに決まっているではありませんか。

「決めたら決めた通りにできる」人などというのがこの世のどこかにいるように思うなんて、そんな緊張感が高まりそうな発想は、いっそ捨ててしまいましょう。

まあ、気が向いたら延滞料金まで払うのはばかばかしいから、コンビニに行くといいのです。ついでに無駄でもリラックマグッズでも買ったりして。

  1. リラックマグッズを買いにコンビニへ
  2. 住民税をついでに払う

きっとこれをあれこれ悩まずにやれてしまうタイミングが、長い人生のどこかにはきっとあります。それを見逃さないようにしたいのです。

タスク管理とは、そのタイミングを見つけるゲームなのです。

「めんどうくさい」を乗りこえるには?

衝動だけで生活を行うというのは、実際にはかなり難しいものです。

たとえば「食事」をするのには、衝動だけで行けます。お腹が空くから、普通はモノを食べたくなるのです。

「トイレ」も衝動だけで行えます。

睡眠も衝動だけで行えます。眠くなります。

また、暑い、寒いということに対して、暖を取ったりクーラーをつけたりすることも、衝動だけで行えます。

しかし、料理は衝動では行えません。お腹が空いたときにしたいことは食べることであって、食事の仕度ではないからです。

まして、お腹が空いてから食材を買いにいったら、そのまま外食したくなるはずです。

衝動で、準備はできないのです。

これを逆に言うと「準備はめんどうくさい」ということです。なぜなら、準備衝動というものは、生理的欲求としてはあり得ないからです。

その意味で私は「お風呂」が心理的健康をはかる、小さなパロメーターだという気がしています。

なぜならお風呂に入るというのは、決して生理的欲求ではないと思うからです。

お風呂に入らなくても、人間死にませんし、お風呂に入らなくても「清潔飢餓感」のようなものも、たぶん生じないでしょう。

私はお風呂が大好きなので、お風呂が面倒だと思わないのですが、お風呂はおそらくめんどうくさいもののはずです。衝動が湧かないものだからです。

今は便利な世の中です。だからわかりにくいのですが、衝動が生じてからでは、たいていのことは手遅れなのです。お腹がうんと空いてしまったら、料理なんかするタイミングではないのです。(だからレンジでチンは偉大なのです)。

準備するには、タイミングが大事です。

料理は、理想をいえば、お腹が空くときに終わっているタイミングで始めるのが望ましい。

このタイミングをみつけだして、「超お腹が空いたと思ったら、目の前に食事があるではないか!生きててよかった!」と繰り返し実感すると、めんどうくさいのが解消されていきます。

成功体験が報酬となって、習慣が形成されるからです。そのようにして「料理欲求」が湧くようになります。