佐々木正悟のライフハック心理学

ビジネス書作家・佐々木正悟のブログです。ビジネス書作家のライフハックを中心とした生活ブログです

「仕事で」メイドカフェに行ってきました!

www.schatz-kiste.net

要するに懇親会の会場がそれだったというオチですが。

いろいろとびっくり!

まず、混んでいました。外でおじさんみんなで待つというところからしてなかなかおどろき。カフェに入るためにおじさん一行が待つというのは、あんまりないことだと思います。

次に驚きだったのは、本当にこういう空間が!というところ。そうでなければ問題でしょうが、そうであればあったで驚くという。

しかししばらくして冷静になってみると、いや、椿屋珈琲さんも、ある意味ではそう違わないのでは?

www.towafood-net.co.jp

それからまた冷静になってしばらく考えていたのですが

  • 最寄りの駅から近くもない
  • お値段が格安とは決して言えない
  • 行ってすぐには入れるとも限らない

この条件で、あれほど繁盛しているとは。ニーズというのはじつに大事です。

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Gmail専用にGoogle Keep使ってみるとかなり便利

メモとしてGoogle Keepは非常に便利ですが、わたしにはすでにたすくまあり、Evernoteありで、ほとんどマルかぶりのKeepはどうしたものかと。

最近しかし、Gmailのサイドに常に出しておけて、しかもGmailの内容をすぐにメモかできるこの特定用途でもとても便利だと知りました。

たとえばGmailからのメールで「この内容をそのままそっくりメモしておきたい」というときEvernoteに入れておくのはむしろ不便でしかも永続的に残したいというわけでもない。

たとえばイベントの場所と時間などは、一時的なメモでいいのです。しかもじつに素早くiPhoneからも確認できる。そしてメールはアーカイブ。

なくてもいいようなものですが、この一手でかなり軽快感が増します。Googleカレンダーとの連携もきわめていい感じです。お試しください。

拙著『すごい手抜き』ベースにぞえさんが漫画貸してくださいました!

 

ぞえさん、ありがとうございます!

 

私ではとてもマネのできるはずもないカワイイキャラ満載のコミックです。

 

電子書籍オンリーですが、kindle unlimited対応ですので、会員方は無料で読めますし、会員でなくても480円です。

原著とある意味ではまったく雰囲気が違っていますが、ぜひお楽しみ下さい!

 

 

 

すごい手抜き - 今よりゆるくはたらいて、今より評価される30の仕事術 -

すごい手抜き - 今よりゆるくはたらいて、今より評価される30の仕事術 -

 

 

 

今日書けたこの記事はたいしたものです

こういうことができるのが、ブログなんですね。

諸事情あって、今日という日にブログが書けているということはすごいことです。私の精神力のたまものと言えましょう。

こういう日はやはりあります。40度の熱が出ているとか。そうではないんですけど。

つまりもう「ブログをアップできただけでもやり過ぎだ」という状態でブログを書いているということです。こういうことは、書いておかないと、特にデジタルだと、見分けがつかなくなります。

もちろんこの状態ですから、内容としてはいまいちです。ですが、たとえばセミナーであれば、たとえ40度の熱があっても、それを気取られるようではやはりダメでしょう。私は「プロとしてのなんとか」とか好きではないんですけど。

が、ブログならば、むしろそういう背景も悟られて、いいように思います。少なくとも私の場合なら、OKです。

セミナーは休めないとしても、本の原稿は微妙です。ここまで状態が悪い中で書くと、悪影響がありそうだから書かないという手もあります。しかし、毎日書き続けないと悪影響が出ることもあります。

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目標は楽しんでもらうことです

 

目標というのは、設定しなければなりません。とりたてて設定などせずとも、自明に存在する目的とは、その辺が違います。

たとえばプロ野球チームの目標は、通常優勝でしょうが、目的が優勝とはあまり言いません。

目的としては、野球を楽しんでもらうのも目的でしょうし、ビジネスも目的でしょうし、経営そのものは赤字でもマーケティングという目的があるでしょう。

目的は本来、行為を実行すれば自然と果たせるようなものであるはずです。それが通常は複数あります。なんとかドリンクと違って食事の目的は栄養補給ばかりではありません。

目標は設定しなければならないものですが、ということは、達成できるとは限らないという意味でもあります。実際現在すでに6勝10敗で借金が4つもあるわが千葉ロッテマリーンズは、「優勝」も「プレーオフ出場」という目標も、達成がかなり困難に見えます。

www.marines.co.jp

私の仕事のどれをとっても、やっぱり目的はたくさんあります。本を書くのは、本を出すのがそもそも目的ですし、もちろん印税をいただくのも目的ですし、自分の考えを文章化して、わかりやすく伝えるのも目的です。

でも私は一応作家なので、「本を出すこと」は決して目標ではありません。それでは困ります。

目標は、重版出来でもいいのですが、出版社さんや担当編集さんに喜んでいただくためにも、重版をぜひ達成したいとは思いますが、重版を目指して「書く」というのは、正直リアリティがありません。

書く内容次第で売れ行きが500部かそれとも5万部になるかが決まるというには、どうにも思えないからです。

だから重版が出たらいいなとは思います。でも書き手ができることは、読み手の人に楽しんでもらって、あわよくば為になるといいと思います。

ただそれはけっきょく、楽しまれるかどうかは、努力の余地はあっても私の手の届かないところなので、「優勝」と同じく目標なのです。

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Photo by Oliver Schwendener on Unsplash

 

だいたい大丈夫な気分に従うのが正しい

「考えろ! 想像しろ! 危険やリスクをすべて洗い出せ!」

私たちが過去や未来を思い悩んだり、「意味づけ」をしたりすることをやめられない最大の原因がここにあります。

 

goodvibes.work

 

こちらの倉園さんの記事からの引用で、よぎったことがあります。

強迫神経症という病気です。

よく知られているものでは「手を洗うのがやめられない」とか、「家の戸締まりをしたか気になって、何度も何度も戻ってしまう」というものがあります。

どんな人でも、根拠がないというだけのことで自分の中の素朴な信頼を疑い出したりすると、かえって生きることを危険にさらしてしまうといったことになります。

「自我の」と言うべきか、脳の機能は時に暴走します。「きちんとカギをかけたかどうか、もう一度確認した方が安心だぞ!」というわけです。備え有れば憂いなしと。

しかしこれは、よく考えると際限なく続くのです。

なぜなら、「カギをかけたことを絶対的に確信すること」は、ドアから一歩はなれれば、不可能になるからです。この種の人はまたこうも言います。「記憶は宛にならない」。

でも何度確認しようと、ドアからはなれたときにあてにするのは記憶なのです。

もちろん常識的には、1度戻って確かめてもなお、「記憶は宛にならない」というのはおかしい。ですが、脳が「戻らないと危ない!」信号をうるさく出すと、それを振り切ることがギャンブルのように感じられてくるから不思議です。

ここで問題になっているのは実は、記憶のあやふやさでもなければ、備えと憂いの話でもなく、ただたんに、ついつい暴走した脳の信号に従うように習慣化されているうちに、信号が出まくるようになっていくというループのように思います。

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Photo by Matthew T Rader on Unsplash

 

浦沢直樹の新作はおもしろい!

 

あさドラ! (1) (ビッグコミックススペシャル)

あさドラ! (1) (ビッグコミックススペシャル)

 

 こんなことを言ったら叱られるかもしれませんが、この人の新作は常におもしろいのです。

個人的な意見ですが、MONSTERも、二十世紀少年も、PLUTOもビリーバッドも、第1巻の読後感がいちばんドキドキさせられました。

それから徐々に・・・。

というか、その後もずっと断片的なエピソードはおもしろいのです。トータルの整合性について目をつぶればいいだけなのです。

それから、もはや鋼鉄製の信念で、Kindle版は出しませんね。絶対でないと思いますから、紙で買いましょう。

この方の作品だけ、昭和の時のあの楽しみ方を貫き通せば良いのです。

 

平凡とはプロということ

そう、おもいませんか?

子供のころからずっと思ってきたのですが、「ふつうだな」と思うとき、私たちはプロの仕事を見ています。

昔、まだチャンネルがリモコンですらなかったとき、ガチャガチャ回してNHKお昼のニュースを一家で毎日見ていました。

「お昼のニュースです」

 

あれ見てたった一度も「すげえなあ!さすがはプロのアナウンサーだわ!」と思ったことはないし、そう言っていた人もいませんでした。

ふつうである。いつも見ている。当たり前の光景。

それは、レアなのです。

プロ野球でも、打率2割ちょうどくらいの「7番バッター」が「平凡なセンターフライ」を打ち上げて「あぁ〜」とみんながため息をつくというとても平凡な光景があります。

千回くらい見たような光景ですが、ああいう打球を打てと言われても私なんかでは一生に一度も打てないし、あんな打球を外野手として捕球するのも絶対無理。

見た目ものすごくありきたりなことを実行することができるのは、プロばっかりです。「一般人」が野球をやってもテニスをやっても、平凡な光景は現れず、笑いを取るような光景になってしまうのです。

EvernoteとかWorkFlowyとか当たり前のことが当たり前になるようなサービスでは「いろんなガジェットで同期がとれます!」とか「ノートブックごとにノートを整理できます!」とか「タグがつけられます!」などといった「平凡な」特徴しか出てきませんが、それが全部できるのは「平凡の星」なのです。

新聞記事を読んでいても、誤字が全然出てこない、いかにもいつでも読めそうな眠くなるような文章が出現します。

 

 

凡人の星になる: 月間10万PVの雑記ブロガーが「凡人」を武器にするまでの七転八倒

凡人の星になる: 月間10万PVの雑記ブロガーが「凡人」を武器にするまでの七転八倒

 

 今度お昼になったらインターネットラジオで「お昼の時間です」とつぶやいてみましょう。それをごく当たり前に聞こえるように言えたらプロ中のプロです。

anchor.fm

 

メディアの力

eiga.com

この映画を見て、不快な無力感というものをすっかり思い出させられました。

私はちょうど911のテロが起こる直前に渡米し、イラク戦争が「終結」するまでアメリカにいました。

これはまったくたまたまなのですが、あの頃のアメリカのまっただ中にいたのです。といってもニューヨークやロスにいたわけではなく、アメリカの文字通りど真ん中のミズーリ州カンザスシティ(まあ田舎です)にいたのですが。

テロが起きたときは、何しろ英語が全然まったくわからなかったので、なにが起きたかも理解できませんでした。しかしその頃からとにかく真っ青な空に何百本もの星条旗という壮麗でないわけではない風景を、不思議な気持ちで眺めていました。

ハーケンクロイツだってやっぱりこんなふうに見えていたころはあったのだろうなとは、よぎりましたが。

その後テレビでひっきりなしにひたすらミサイルが飛んでいき、「アフガニスタン」という単語だけは聞き取れたので、理由はよくわからないがテロが起きたので、アフガンを攻撃しているんだろう、ということは理解できました。B29の映像だってああだったのに、あの下にいたんじゃたまったものじゃない、くらいには思ったものです。

そしてその後しばらく立つと、どういうわけか「イラクと戦争」という雰囲気に変わっていきました。これにはまったく理解に苦しむものがありました。(おおむね好意的に)「あなたは日本人だから」と言われるのですが「なぜイラクと戦争しなければならないのか?」をアメリカ人は誰も教えてくれないように思えたのです。もっといえば知らないような。

「私たちは心配しているのよ」という言葉をよく聞きました。「もしフセインが核を持って、911以上のテロをやろうとしたらとか」。私の稚拙な英語力と、私のいかにも平和そうな雰囲気から、物わかりの悪い子供に教えるような感じで、そんなふうに言われたものでした。

しかし私の疑問はいっそう素朴になります。「けどノースコリアとか、イランとか、心配ないにしてもパキスタンとかロシアとかイスラエルとか・・・」(このレベルならなんとか伝えられる英語になっていましたが、そこまでに3年かかってました)。

「もちろんノースコリアは心配ね」とはいうものの、イラクの半分も心配している気配の人はないのです。イラクが核実験を行ったというニュースはまったく入ってきてないというのに。

そのうちに「核」が「大量破壊兵器」という言葉に変わりました。これはもう本当にすごくて、連日連夜、あらゆるニュース、ワイドショーらしき番組で、ずーーーーーーっとディスカッションしているのです。もちろん私たち留学生も大学でさせられました。

私と台湾人と中国人と韓国人が、「イラクに大量破壊兵器はあるかないか、フセインにそれを捨てさせる方法は?」なんて議論してたって、四つ葉のクローバーには恋愛を成就させる力あるかないかを議論してるようなものです。

けれどよく「空気」と呼ばれている世論のようなものは、日に日に変わっていきました。「何でも口にする自由」のようなもの自体はあったのです。公然と戦争反対ですぐ議論をおっぱじめる人もけっこういました。

しかし、それ自体はいいことなのですが、意見を言う自由があっても、反戦デモをやれる自由があっても(交差点などでは頻繁にデモがあり、それを野次る人たちも大量に見ました)そういうことはあったとしても、戦争になるにちがいないという感じはずっとあったものです。

この話はまた折を見て続けたいと思いますが、問題は「日本人的」であるとか「同調圧力に屈する」ことばかりではないように思います。あのいかにも素朴に無理のある印象だった「イラクに大量破壊兵器がある論」を、ものすごく大勢の人が信じようとしていた状況では、「だまされないように意見する」ことで誰にせよ相手を立腹させてしまう。

で、一度腹を立ててしまうと、ますますかたくなになってしまうという事態を、なかなかどうにもできにくくなるのです。

そしてそれを形成していたのは、確かにメディアの力というものでした。

「大好きなことをすれ」と言われてもなかなか困りますが

 CHANGESのようなセミナーを開催したとして、いちばん困るのが「佐々木さんはライフハックして何をしたいのです?」というようなご質問をいただくことです。

wonderland02.com

今回もいろいろとお世話になりました!ありがと言うございます。

 

筋書きとしてはわかりやすいほうがいいというのはわかるのです。

小さいころから文章を書くのが大好きで、ずっと文章を書いてきて、それさえしていればつらいことも忘れられた。だから文章を書いていたらいつの間にかそれが仕事になっていて・・・

という話は飲み込みやすいでしょう。

ただそういう話は事実に反する。私は作り話が下手です。そもそも私には「大好きなこと」なんてあまりありません。それをしていれば寝食を忘れられることなんて、ありません。

趣味はありますが、それで仕事になるとは思えません。仕事になったとしても、あまり仕事にはしたくないな。

 

しかしやっぱりチェンジズセミナーなどを開催すると、その辺のことについて考えまくる。考えてみると、いちばん間違いなくこれは好きだと言えるのが「モーツァルトを聴くこと」でした。クラシックを聴くことではない。モーツァルトを聴くことです。

(余談ですが私には、無人島に持っていくのでモーツァルトとベートーベンで悩むなんて考えられません。モーツァルト一択です。たしかに後期弦楽四重奏には未練がありますが)。

モーツァルトの中でも、私がやや偏愛的に聞くのはピアノ・コンツェルトですね。もちろん、クラリネット五重奏や、ハイドンセット、後期交響曲集、そしてオペラの方が評価が高そうなのは私でもわかります。

しかしなんだかんだと言って、ピアノ・コンツェルトはヘビロテです。とくに、26番と27番のカップリングが好きです。全然興味ないという方も、一度このカップリング聞いてみて欲しいです。

構成は1作品3楽章で非常にシンプルですし、難解なところなど皆無です。それでいてろくな表現ではないですが「完璧」です。言うことなしです。

26番の「戴冠式」よりも「27番」方が名曲とされていて、いまでは私にもそれくらいは理解できます。確かに27番は神業としかおもえないです。でも私は26番、けっこう好きなんですよね。

いささか単調ですがやはりまぎれもなくモーツァルトですし、27番を心待ちにしながら、26番を聞いているのもとてもいい時間です。

 

モーツァルト:ピアノ協奏曲第26番「戴冠式」&第27番(期間生産限定盤)

モーツァルト:ピアノ協奏曲第26番「戴冠式」&第27番(期間生産限定盤)

 

 

神保町の「エチオピア」というカリー屋さんに行ってきました

tabelog.com

好みもあるかも知れませんが、とてつもなくおいしかったです!

隠れ家的名店でもなんでもありません。ただの人気店です。ただのというのは変ですね。人気有名店です。

とはいえ、けっこう見つけにくい小ささで、中にはいっても狭いです。そもそも細ーい階段に行列ができていて、知っていても並ぶ気がしないのです。

だから私は今日、初めて行きました。

すごい、おいしい!

みんなそう思っているようで、お昼からかなりハズレた時間でも、やっぱり並びます。並んで食券すぐ買うやり方なので、行く前に食べるものを決めておいた方が良いかもしれません。でもびびることはありません。びびるのもったいないです。

こんな人気店を、ブログで書くことないのですが、書いてしまうおいしさでした。

辛さはけっこう辛いので、「0倍」で良いと思います。私の食べた豆カリー(カリーと表記されているし、店員さんもみんなこう言う)は「3倍〜」でしたがけっこう辛かった。最大70倍とか書いてあった気がするが、食べる人いるのか?

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最初の一口に比べて、食べているうちにおいしくなっていくという印象でした。これは不思議。したがカレー化しているうちに、味への理解が高まっていくという感じでしょうか。

最初は、おいしいけど辛いし、これ食べきれるだろうか、という感じだったのに、食べ終わる頃には、もう一皿食べるのを抑える気持ちでした。

ちょっと見苦しくて申し訳ないけど、このへんからおいしさマックスなのです。

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第2回CHANGESセミナーはひいき目に見てもよかったと思います

今回のテーマは働き方ですが、私がセミナーのテーマとしていたのは「時間管理」でした。

つまり時間不足や過剰な超過を避けようと思っていました。

時間管理というのは「ちょうどいい」感覚がないとダメなように思います。巻けばいいわけではないのは当然ですし、超過もあまりいいことではないのですが、全体的に「この内容なら超過もいい」と思われるならそれでもいいと思います。

それを確認することはできないと思っていますが。

前回は、6人の登壇で事実上40分の超過だったので、一人7分を気をつければ、きっちりだったわけです。

しかしそこまでせずとも、セミナー開始を10分早めれば、一人5分気をつければすみます。さらにセミナー終了を10分遅くしていいことにすれば、ひとり3分ちょっと気をつければすむわけです。

今回は美崎栄一郎さんのところで、これで時間は大丈夫だと私は考えておりました。

また、美崎さんのお話に、もっとお金のこともちゃんとしよう、という気持ちにさせられました。美崎さんには毎度こういう感じのことを教えられます。

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また、美崎さんは何度もプロフィールを聞かれることがとてもいやだそうで、一度きちんとしたものを作っておくことにされているそうです。これはもっともだと思いました。

プロフィール | 美崎栄一郎公式サイト

 

私自身は時間をテーマにしておきながら、事実上、30分で終わるべきところを2分は超過してしまったので、難しいなと思いました。

それでも今回は、かなりちょうどいい感触を得ました。懇親会の長さとしても満足感があったと思います。手持ち30分は短いですが、6人分聞く参加者の気持ちに立てば、これ以上は厳しいでしょう。

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部屋の片付けというのは比較的難しくない問題です

昨日、編集さんとうち合わせしてきました。

そのなかで「汚部屋」という問題はけっこう蔓延している問題だ、という話題になりました。コンマリさんのこととあわせてちょっと盛り上がりました。

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Photo by Onur Bahçıvancılar on Unsplash

 

しかし部屋の整理というのは、本来そう難しくない問題です。

タスク管理的にいうと、こうなります。

  • タスク項目数に上限がある
  • 1つ1つの単位がハッキリしている
  • 大きいか小さいかが可視化できる
  • 片づければその効果が目に見えてハッキリする
  • 最終目標も明快である

部屋の整理以外の不可視な仕事について、可視化、上限、最終目標がこれほど恵まれている仕事は、実はめったにありません。

それでもうまくいかないのには、実はそれなりの理由があります。

部屋の整理がうまくいかないのは、次の2つの理由によります。

  1. 自分自身以外にメリットを受ける人が少ない
  2. 片づける橋から散らかしてしまう

このふたつはしかし、解決できます。

1は、人を呼ぶということによって、解決可能な問題です。

2は、いったん片づける部屋を「クローズ」することです。オープンリストにしておくから、片づかないのであって、クローズすれば片がつくのです。

なぜ人はツールを使い分けるのか?

ぱっと持って手になじむ道具は同化が容易であるという意味でよい道具と言える一方、自動車や楽器のように「利用に練習を要する」というのは調節しなければならないと、発達心理学者のピアジェが言いました。

ja.wikipedia.org

同化が容易な道具が優れているというのはいいとして、調節を要する道具は、果たして調節するに値するのかどうなのか、やってみなければわかりません。

バイオリンなどは、傍目で見ていても「調節なしに使える人間などいやしない」ものですが、しかしこれに挑戦する人は後を絶ちません(多いとは言えない)。

だから道具について「合う合わないがある」というのは本当ですが、「自分に合っているかどうかがすぐにわかるとは限らない」のです。

この「すぐわかるとは限らない」はもしかすると、数年を必要とする可能性があります。

ただ一般的にいって、道具になじむというのは、動物でもある私たちにはなかなか容易なことでない気がします。自動車の運転一つとっても、始めて3日くらいで「私には合わない」と感じた人ならたくさんいるでしょうが・・・。

テニスラケットにしてもバットにしてもピアノにしてもスキー板にしても英語にしてもそれどころか日本語や「九九」ですら、ぱっと手にしたり試してみてすぐに「合う!」と思えるものの方が圧倒的に少ないように思えます。

これが私たちが、Evernoteなどのツールを使い分けたがる理由なのではないだろうか。つまり、あうまで調節する前に他に乗り換えたくなるのではないだろうか。

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Photo by Kenny Luo on Unsplash

 

本を書くのに行き詰まるとき

先日、Tak.さんからビジネスライクなご質問をあれこれいただきました。ほぼ、文章作成についてでした。

twitter.com

質問者がTak.さんで、文章についてとなれば、自然アウトライナーの話は出ます。この日は久しぶりにそういう話を集中的にいたしました。

 

 中でも議論になったのはなぜ佐々木が文章を書くとなったら書けるのか、ということについて。実はこれは、答えられないというか、答えにならないのです。

私は書こうと思えば、書けます。幼稚園の時からそうでした。他の子がどうして「書けない」のか、よくわからなかった。

「学校は先生の顔色をうかがうようになる」とか「自由に書こうと思えば書けるはず」とかいろんな議論があるのですが、私にはそれすらよくわからないのです。

やれと言われれば先生が読むようにもできましたし、先生がお望みでないなら、先生向きでないかのようにも書けましたし、そういうことをぜんぜん考えなくても書けます。もちろん自分の能力の限度はありましたが、それはそうでしょう。

論文は、アメリカ留学中に英語で書いたから、とても苦労しました。でもそれは英語を書くのに苦労したのであって、文章を書くのに苦労したわけではないのです。あれは英作文のつらさを倍増しにしただけです。

本を書くのが難しいのは、文章を書くのが難しいのではなく、本にしなければならないから難しいのです。文章がいっぱいあるというだけなら、そんなに難しくはないでしょうが、本になっているという体裁というか、条件のようなものがあるという気はします。

本を書くのに行き詰まるときというのは、はしごを登ってみたら風景が広がっていて、それはいいけど広すぎる、という印象なのです。

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中華街は、確実においしいいつものお店にしました。やっぱりこれが正解。

 

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