佐々木正悟のメンタルハック

メンタルハックをテーマにおいたビジネス書作家・佐々木正悟のブログです。ビジネス書作家のワークスタイルを中心に書いていきます

時間管理はなぜ必要か?

昨日つらつらと考えたことなのですが、自分が今、時間管理をやめられないとすればどうしてなんだろうか?

まず言えることは、記憶のキャパを超えているからです。覚えておかなければいけない予定と締め切りだけでも、記憶だけでは無理ですね。

もう一つは、「自分の時間」というものが今の時代、あるいは私の性格からか、失われやすいからです。

これはよく聞く表現ですが「なかなか自分の時間が取れない」といいます。人間、なにもしていない時間というものはないので、言い換えれば時間は常に流れているので、ある時間が自分の時間でないならば、それは誰かの時間になってしまっているのです。

ここのところをもう少し細かく見ていくと、「自分の時間」には3種類あって、と言うか私が区別してみたところでは、次のように分かれています。

  • 1人だけの自分時間=ひとりじかん
  • 2人以上の自分時間=親密時間
  • 仕事中の自分時間=集中時間

上2つはプライベート。下のが仕事中。いずれにせよ「自分時間」を増やしていきたいという思いはたぶん万人共通で、そのために時間管理が必要になると思うのです。

意識してコントロールしていかないと、特に仕事中の集中時間は全く得にくく、その反対の時間、私はそれを「寸断時間」と呼びたいのですが、ばっかりになっていきます。時間管理的な言葉で言えば「使途不明時間」です。そういう時間は何をしていたかがあとから思い出しにくいのです。

ちなみにですが「ひとりじかん」の反対は私の勝手な造語で恐縮ですが「ぼっち時間」で、「親密時間」の反対は「孤立時間」です。このあたりは時間管理と言うよりライフログで気づくべきケースで、基準は「一人だ」ということが苦痛になっていないか。理想的には「一人」が忘れ去られていて、しかし一人であるというところです。

二人以上なのに一人というのはどういうことかというと、私はいきませんが、ライブなどのいく人にはおなじみではないかと。「場の一体感に溶け込む」とかいいますね。でも人間が実際に溶けるわけではないですね。一人なんだけど、周りに知人は誰もいないかもしれないけれど、孤立してはいない、といった感じです。

逆に、家族と二人でいるのに、その相手からは「仕事しろ」とか「結婚しろ」とかいうプレッシャーが暗黙にせよ迫ってきて、「二人以上」なのに「孤立している」ということもあります。そういうのは「孤立時間」と私は思っているのです。

「ひとり」(趣味に没頭)「親密」(家族と楽しく過ごすなど)「集中」(仕事)の配分や比率という問題もありますが、この3つはいずれも「自分時間」であり、これを失いたくない。特に気づかぬうちに失うということが怖いので、時間管理するわけです。

夢を叶えるタスク管理?

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jMatsuzaki Store / 2017年7月16日 夢を叶えるタスク管理マニア

7月16日のこちらのセミナー、ご都合よろしければぜひ、ご参加いただきたい。

と思っております。

そもそもタスク管理というものについて、自分はいろんなことを長時間かけてしゃべりたいと思っているわけですが、それはなぜかと言うと、いろんな問題に対して応用が利くからで、ということはいろんな問題のことをある程度時間をかけてしゃべる必要があるのです。あると思っているのです。

たとえばjMatsuzakiさんは「夢を叶える」という。これはどういう事かというと、「現状を大幅に変更する」という意味になります。彼の例でいえばSE屋から音楽家へという話になります。

しかし私が一般に想定しているのは「現状を無理なく維持する」あたりです。これは言ってみれば「現状を変えない」ということです。SEさんならSEさんのままに、物書きなら物書きのままに、主夫なら主夫のまま。無理なくできるようになる。

かたや「現状の大幅変更」を目指し、かたや「現状維持」を目指す。でもどっちにも役立つ。どうしてか? どっちも時間の使い方の改善をによるからです。現状を変えるにせよ、現状維持をうまくやるにせよ、時間の使い方にメスを入れる必要がある。と思います。

ただ私は、現状の大幅変更をやるのがうまくないというか、あまりそちらに意欲的な方ではありません。だからというか、だけどというか、jMatsuzakiさんのように現状の大幅変更をタスク管理で成し遂げた人が、どうやったかということであれば、説明できるのです。

これをいろんな人が必要としているというふうに思っています。私は自分の興味領域のせいで、タスク管理と同じくらい多くの人が心理カウンセリングを必要としていると信じているのですが、心理カウンセリングよりはタスク管理のほうが、はるかに「試しやすい」でしょう。

私自身は「タスク管理で夢を叶えた」クチではないけれど、そういう人もいるわけです。タスク管理は応用範囲が広く、非常にプラグマティックで、ぜんぜんスピリッチュアルではない。そういうもので、ずっとやっていきたいわけです。

ご都合のよろしい方は話を聞きに来ていただければと思います。

jMatsuzaki Store / 2017年7月16日 夢を叶えるタスク管理マニア

心理カウンセリングの本を読んでもカウンセラーにはなれないが、自分の心を軽くすることができる

本を読んでもカウンセラーにはなれないとか、分析の本を読んでも分析家にはなれないといったことは、多くのカウンセリングの本などに書いてあります。ちょっと予防線張りすぎなんじゃないかと思ってしまうほど。

著者が正しいとこれに関しては確実に思いますが、じゃあそういった本を読むメリットって何なのだ?ということになりますと、私に限って言えば、自分の心が軽くなるという点があげられます。

世の中にはなかなか難しいし奇妙だという人はふつうにたくさんいらっしゃって、たとえば今ではふつうになりつつあるiPadなどの上の方の「黒穴」がいやだという人がいるんですね。

あそこから自分は見張られている、とおっしゃったりするのです。

そんなことはあり得ないということが充分分かっているはずの、充分頭のいい人が、そんなことをとつぜん言い出す。

ところが、精神分析などの本を読んでいると、そんな人の話が頻繁に出てくるわけで、それに対する非常にユニークではありますが、分かるような気のする説明もついているわけです。

少なくとも、人間の頭の働き方次第では、そんな「iPhoneのカメラが自分を見張っている」という感覚になっていくことも、珍しくはあるだろうけど、あり得ない感覚ではないということが分かるわけです。

そういえば、自分はちがいますが、「窓」なら分かる気がします。窓から隣人がいつものぞいている、と言う神経質な人がいるのは、これは異常ではないですね。うちの奥さんにもそういうところがありますし。

ところで「窓からのぞかれている」と言うからには、結局そういう人は「窓をこっちからのぞいている」んですね。人は、自分のやっていることが相手から同じように感じられることについては、非対称的なものです。が、そのことを知らずにはいられないでしょう。

そもそも「のぞかれている」「見張られている」と言うことは、心理的には「見張っていたい」はずです。警戒心がないのなら、そんなことが気になることはない。

警戒心が無意識になってくると(ふつう、人はそうなるでしょう。いちいち意識しなければプライベートをカーテンで隠すことを忘れるという人は、むしろちょっと少数派でしょう)自分とはある意味「離れたところで」警戒心が働き出すことになるのですから、「窓を見れば自分がのぞかれている」というのは極端にしても、まして「カメラはみんな自分を監視中」というのはいかにも極端ですが、警戒することが人生の主体、みたいになってしまっている人は、決して少数ではありません。自分だってそういう風によくなります。

たとえばある人に対してはほとんど自動的に、「いやいつもすごい仕事されていらして」なんて言ってしまいます。内心そんな風に思ってなくても。そういうことはいくらもあるでしょう。この人のことは褒めておかないとあとでなにが起こるか分かったもんじゃない。これはつまり警戒しているわけです。

心理カウンセリングではそういう話をうんと極端にした人でも、なんとか「救われる」ような方向性が綴られているわけで、そういうのを読むことで、私も自分を少し修正できる気がしてくるわけです。

以上はもちろん、実際には監視されていないということが前提での話です。

 

カウンセリングの実際問題

カウンセリングの実際問題

 

 

面倒なことをライフハックするという面倒くささ

ライフハックというのはもともと裏技的なものだろうと思います。

野球でいうと、内野手を7人にしちゃうとかいうのはライフハック的だと思います。たぶん、世界で最初にタッチアップを考えた人というのも、大変ライフハック的な精神の持ち主だったはずです。

裏技なので、もともと得られないはずのメリットを得るために考案されたものなので、面倒なものなのです。タッチアップは、きっちりと考えると非常に面倒なものです。ホームランなんかにくらべると、もちろんわかりにくいし、華々しさもないし、スッキリしない。

ライフハック的というのは、そういうところにある種の倒錯的な喜び(ホームランより犠打で一点取る方が嬉しいとか)を感じるというか、そういう精神構造が少しはないと、受け付けられないところがあります。

タスクシュートには、ライフハックの権化というか、かたまりのようなところがあって、「時間」という、非常に自然的で、人工的にはまったくどうにもこうにもしようのないものを、形式的に、自己調節によって、少なくとも自己の行動に関して管理しようという発想に基づくものです。

野球を例に取りましたが、こういう精神活動において「ルール」というのは非常に大事で、「なんでそんなルールが要るの?」となったら破綻してなり立たなくなるものです。

ルールがあるから、タスクシュートに意識をかたむけられるわけです。使途不明時間をゼロにするとか、1日の中で残っているタスクがあったらダメとか、終了予定時刻を意識するといった「ルール」に「本末転倒だ」というのは、それこそ本末転倒なのです。

それは、「べつにフライを打ったってふつうに進塁してもいいじゃない」と野球のルールにケチをつけるようなものです。ルールは恣意的なもので、だからこそ人工的な競技が成り立つので、そうして初めてあんなに多くの人がわりと簡単に熱狂できるようになるわけです。

自然発生的でないルールは、心のどこかで意識的に守る気にならなければ、コミットできなくなります。フライが上がっているのに一生懸命走塁していたら、野球に精通している人には、気が変になったのかといった感じを受けます。

タスクシュートもそれと同じように、「最近たすくまのリストを目にしていません」となったら、「それはよほどのことがあったのですね! お大事にして下さい。」と思うくらいにはなるものなのです。

昔に戻ってやり直すためのライフログ

ライフログって何の目的で記録するのですか?

という辛辣な質問があります。これは難しい問いです。じっさい「ニヤニヤする」で済まされようとしていた時期がありますが、十分に説得的だとは思えませんでした。

でもそもそも「ニヤニヤする」ってことは、ライフログを見ると楽しいという面があるわけです。なぜでしょう?

これは、上野動物園にパンダといっしょに写っている写真を見ればある程度わかります。パンダが好きなら、ですが。「ああ。行ったことあったんだね!」から「ああそうだった・・・」となればしめたもの。経験を再生できるわけです。

ここからいきなりまた精神分析の話を連想してしまうんですが、今ではぜんぶがそうだというわけでもないようですが、古典的に精神分析では「子ども時代を思い出すこと」をまず求められていました。

ライフハック界隈だけではないと思いますが、「学生時代に戻れたらもっと英語を勉強するのに・・・」という方はけっこういらっしゃいます。これの解決作は比較的簡単で「今からでも英語を勉強しましょう!」につきます。

しかしながら、「お母さんがあの時もっと優しくしてくれていれば!」はもっと難しい。今からやさしくしてもらうということも難しいかもしれませんし、そもそもそれが可能とも限りません。

「あの頃に戻りたい!」というのはしかし、本当はそうじゃないはずです。「今からの人生をもっとよくするために、一時的にタイムマシンであの頃に戻って、行動を修正したい!」ということでしょう。別れた彼女と結婚しておいたら今の人生はもっとよかったはずだ!というような。

しかしタイムマシンはまだありません。そこで精神分析というのは違和感があるかも知れませんが、分析にはそういう機能があると思います。

「転移」というのはけっきょく、ある意味では「再現」です。こじれてしまった父との関係をやり直す。そのために、分析の場に、セラピストを父に見立てた関係を再構築する。非常にうまくいった事例では、これを「やり直す」ことができ、まさにタイムマシンのように、一時的に「戻り」、これからの人生を好転させるというわけです。そううまくいかないケースもたくさんあると思いますが。

しかし、タイムマシンよりはマシですが、分析を受けるというのも、日本では今のところあまり現実的な手段ではありません。

というわけで、私はライフログを取っているんだということをだんだん意識するようになってきたのです。

ライフログを取ってみても、そんなに「再現」ができるわけではありませんが、「あの頃に戻る」何の手がかりもないよりは、手がかりの1つもあった方がはるかに、格段に可能性が高まってくるのです。それをEvernoteで見るたびに実感します。

いやでも、まだ何のログも残していないし、今から先のことばかりじゃ・・・と思う人も多いようですが、ここに発想の転換が求められるのです。これから先の経験を「再生したい!」と思うことは、1度や2度ではありませんよ。

小説と分析

自分は精神分析家ではありませんので、精神分析のなんたるかはわからないのですが、精神分析というのはどうも、カウンセリングや心理療法だと、私が習ってきたものとはちがっていて、何なんだろうと思っていました。

河合隼雄さんの本とか、土居健郎さんの本とか、そういうものを趣味的にやたらと読んできて、とにかくそういうことをしている人の言っていることは分かるのですが「そこで行われていること」というものがなんとも見えてこない。

要するに「精神分析を体験するとなにが起こるのか?」について、モヤモヤもや〜っとしている。こういう有名な本を読んでみても「甘えとは?」というテーマについての著者の見解がわかる気がするだけで、「精神分析」についてはわからない。

 

「甘え」の構造 [増補普及版]

「甘え」の構造 [増補普及版]

 

 しかし最近、倉下忠憲さんとのきばトークを毎週のようにやってみて、精神分析とは「小説を書くこと」に似ているかもしれない、と思いました。

私も、学生時代、愚かにも小説を書いていました。しょうもない作品ばかりで、今はみんなどっかにいってしまいました。そのことを先日ののきばトークの中で、「アリス」を書いた倉下さんの話を聞いて思いだしたわけです。

 

【英語版】アリスの物語/Alice's Tale (impress QuickBooks) (English Edition)

【英語版】アリスの物語/Alice's Tale (impress QuickBooks) (English Edition)

 
アリスの物語 (impress QuickBooks)

アリスの物語 (impress QuickBooks)

 

 小説家と小説の関係というのが、「精神分析」で起こっていることに、私が「精神分析」せずに体験できるとすれば、一番近いんじゃないか、と思ったわけです。「小説」はクライアントでもなければセラピストでもないのですが。

よく、精神分析における「出来事」として、「いわされている感じ」というものを述べている人がいらっしゃるわけです。そういうようなことが、確かに私のようなしょうもない小説を書いていても、起こるわけです。

今でも覚えているキャラというのがいて、今でも覚えているそのキャラのセリフというものがあります。これって、精神分析的なんじゃないだろうか、と。だってそんなキャラはこの世のどこにもいないわけで、もちろんそんなセリフもないわけです。ぜんぶ私の頭でねつ造したもので、いってみればそれは「私」なんです。

でもなんか私の中では、そのキャラクターたちはすでに「他人」みたいになっていて、他人が「言ったこと」を覚えている感じと、何ら変わらない。あのキャラクターも「私」だとすれば、「私」と「他人」の関係が、どちらも私の中にしれっと存在してしまっている。

「転移」とか「投影」とか「退行」いうのは、こんな感じのことなんじゃないかと、最近思ったのです。私が幼児キャラを描き出す。描き出したことがありませんが。そのキャラがいかにもリアルに幼児っぽかったら、それは私が退行したのとどう違うんだろうかと。

それに、居もしないかれらの「声」が私の中でこだまし始めたら、それは「分裂」といわないんだろうかと。

 

あとで使う資料をEvernoteで整理する

私のEvernoteの整理ルール では「過去のノート」の扱い方に終始しました。

記事中でも書いたことですが、過去ログを集めて、それを形式的に分類していくのが、なんと言っても一番うまくいく気がします。

私もそっち方面で分類や整理で悩むことはほとんどありません。

困るのは「未来側」なのです。

とくに、なにに使うつもりなのかがもう一つはっきりしないのに、「とっておく」ことだけはしたくなる類いの資料。ウェブクリップも典型的です。

これはとりあえず「その他方式」ですすめていくのがいいと思います。

何に使うのかが、はっきりしているノートから排除していくやり方です。

わたしであれば、シゴタノ!で使うネタは、そういうノートブックを作って、そこにまとめ、ブログで使うネタは、やはりそういうノートブックを作って、そこにまとめる。

すると、「何に使うか分からない」のが残りますので、さらにそれを分類していく。

これは自分の収集したノートを中心にして、現実に分類しないと、分類の軸が全然定まりません。ちなみに私は、未来で使うノートは「ネタ」でないなら「カタログ」として、次のように分けています。

 

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こうするとだいたいは、「ネタ」としてなにに使うか決まっているものか、「カタログ」として、あとでその中から捜せればいいものに、うまく分けられてきているような気がします。

それでも残ってくるのがsettingなのですが、これについては、また別の機会に。

アイディアを思いつくことができなくても、アイディアノートは絶対に必要

ネタ帳とは、なんだかいまひとつ役にたたないモノなのに、どうしてつくるんだろう?

というようなことを、倉下忠憲さんと「のきばトーク」というチャンネルでダラダラとしゃべっているのですが、気になる方は聞いて下さい。ただし小一時間ほどの音声です。

このトーク中に私が覚えておきたいと思ったことが1つ。

たとえ、書き留めておいて読み返したらつまらないように思えても、書き留めておかなくて「あー!すごいことを思いついたのに!」と後から思って後悔するのは、かなり精神的に「来る」ということ。

逃がした魚は大きい!

逃がしたから大きさはわからないだけに!

そういう精神衛生的な大破を避けるだけでも、本を書くといった長丁場になる「アイディア探検隊」には大事なことなのです。

これは、何らかの「アイディア探検隊」的な仕事をする人は、覚えておいて絶対に損のない話です。たとえば社内プレゼンなどする人の場合に。

「ネタ帳」があれば、そこに何一つ実のあることなど書けないとしても、ネタ帳がないと、「すごいアイディアを数日前に思いついたのにそれが思い出せないから今度のプレゼンは失敗する!」という思いにとらわれて失敗します。

 

「超」発想法

「超」発想法

 

 

 

youtu.be

今日はMacの代わりにiPadでブログを書いています

goryugo.com

hokoxjouhou.blog105.fc2.com

このへんの話題に強く触発されております。

やってみたら、書きにくいです (笑)
でもかけないってことはない。
旧iPad Proの10.5インチにキーボードをつけて書いています。慣れが必要ですし、慣れても快適とは言えないですね。
まずキーボードがやっぱり辛いです。打鍵感が「変」としか言いようがない。
また、漢字変換がキーボード用じゃないです。これはフリック入力用だ。
今はまだ家だからいいけど、これを電車の中とかでやるとなったら辛そうだ。肩も首も、すでにそろそろ痛くなり出しかけています。キータッチが何というか(安っぽい)とこんなにつらいモノなのですね。

しかし、軽い。鞄に入れたらかなり違いそうです。軽ければけっきょく肩や腰にいい。

軽いから持ち運ぶ分には肩や腰にいいけれど、これで長文を打ったら肩や腰に悪い、という。

うーん。

リフティングのようにミニ企画を少しずつ進める

サッカーで、手以外の体の部分を使って、ボールを地上に落とさず打ち上げ続けること。

kotobank.jp

 

 昨日、「横浜ライフハック研究室」というセミナーを関内で行いました。参加いただいたみなさま、ありがとうございました!

一瞬このセミナーの名称を「のきばトーク」にしようとしていましたが、やめました。このセミナーの前身は「ライフハック@横浜」で、実はその前にミニワークショップがあったのですが、なかなか紆余曲折を経てようやく今のスタイルに落ち着きそうです。

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昨日このセミナーのテーマは「個人企画を進める」だったのですが、私が最近やっている中でも「意外にこれが一番進んでいるな」と感じているのが、「リフティングタスク」です。これも私の勝手な造語ですが。

タスクシュートでは、ふつう「リピートタスク」を連日きちんと実行するだけで物事を前に進めます。そのリピートタスクのレパートリーを時間枠におさめつつ、実行順を徹底捜査するところがポイントなのです。

これで驚くほど物事が片づきます。なぜなら、いいかげんな順序で仕事を進めると、1つ、致命的な場合には2つ、大事な仕事を終わらせないまま翌朝を迎えるからです。それを連日繰り返すと、休日に仕事をし、徹夜して仕事をしても終わらないという事態に必ずぶつかるのです。

たったそれだけのことなのです。

しかし、タスクシュートで仕事をきっちり進めてもなお、できないことというのはあるわけで、その1つが「個人企画」つまり「自分の時間でやりたいこと」なのです。

それを私は「リフティング方式」というやり方。つまりリピートタスクの中に単発のタスクとして組み入れて、それにぶつかったら、その時できることをするか、できることがなければ、せめてやり方を少しでも考えて、それをメモするなりして、またしばらく先に送ります。

これを繰り返しているうちに、意外に進むのです。このやり方が、ちょっとだけボールにタッチしては地面に落とさない、リフティングと似ていると思っただけです。

なお、これをやるには少なくとも、デイリータスクをタスクリストにするという習慣が必要になります。

タスク管理ツール・TaskChute2

 

マンガでわかる!タスクシュート時間術〈超入門〉

マンガでわかる!タスクシュート時間術〈超入門〉

 

 

ブログには、言いたいけれど言えないこと、を書く

なぜ言えないのか、は分かりません。でもなぜか言えないことってあります。

ブログを続ける動機が問題提起されると、決まってやってくる二極思考というものがあります。PVか、書きたいことか。アフィリエイトか、「純粋な」動機からか。他人からの賞賛か、自分の内なる喜びか。というものです。

ああした記事にはどうも興味がわきいません。どっちでもない人間はどうしたらいいのか。一言も振れられていなかったりすることが多いのです。

私はどうして今日もブログを書いているんでしょう? どうもよく分かりません。

収入のため、にしては収入になっていません。いつかそうなりそうか? そうとはとても思えません。

PVのため? 多ければそれは素直にうれしいです。でも、ずっと前のほうが今の十倍くらいもありました。

書きたいことを書いているか? たぶん。書きたいことでなければ、もう書かないと思います。しかし、書きたくて書きたくてしようがないか? といわれると、そんなことはありません。書かないときは、なんだかむずむずするという人もいますが、私は大していろいろ感じません。だから書かない日もけっこうあります。

他人からの賞賛。これは、もちろんうれしいに決まっていますが、ブログを書く動機づけではないです。

自分の内なる喜び。それはそれほどありません。

すなわち以上のすべての動機づけは、それ自体ではとてもブログの更新を支えられません。どれも少しずつありまして、全部を足した「動機づけ」で書いているのかもしれません。

これらの他に・・・そう考えてみて、1つあげられるのが、「私はつい黙ってしまいがちだ」ということ。他人に対してはもちろん、家族に対してすら。本当はなにか言うべき時でも、なんだかつい黙ってしまう。黙っているほうが、しっくりくるのです。しょうがない。性格なのです。

おしゃべりです。でも、つい黙ってしまうということがある。それも、意外に自分にとって大事なことで、そうしてしまうのです。

代わりにここで書く。そういうことはあります。

これは、こう書くとずいぶん歪んでいるみたいですが、そうでもないです。ブログの特徴の1つに、文脈に依存しない話題を選べるところがあります。

たとえ「ビジネス書」や「まんが」を紹介するにしたって、何の文脈もなしにいきなり「この本面白いよ!」と言い出すのは、意外と難しいものでしょう。非常に話術に長けている人は、これでもやれるんですが、私にはまず無理です。それがフロイトの本だったりしたらもう全く無理です。

そこでブログなのです。ブログは、「読まれなくてもかまわない」。なので、いきなりフロイトの本をおすすめしたってかまいません。誰にすすめてるんだか・・・誰が読んでるんだか・・・でも自分としてはおすすめしたい・・・おすすめするに値する本だということを、自分としては疑いたくない。そして誰かが現にAmazonから買ってくれたりするのである。(ここが単に心の中で想うだけとちがう)。

というところで、くだんの、PVもアフィリエイトも気にせずそれらを気にするというスタンスが成立するわけです。

私のEvernoteの整理ルール

Evernoteをなにに使うかという話になったとき、とりあえずここで分岐することになるのが

  • 過去ログ志向(過去)
  • 情報活用志向(未来)

このどちらかということです。

Evernoteは「メモ」「資料」「記録」や「ウェブクリップ」をとっておくことのできるツールで、要するにそれだけのことなのですが、その総数は一個人でも非常に多くなりうるものなのです。

私は今、とりあえず31000ノートですが、これには「ゴミ箱行き」になったノートは含まれておらず、しかも2013年以後のものだけです。Evernoteには10万ノート問題というものもあるし、データがふえればふえるほど速度低下を引き起こしている感じがあるので、いろいろやって押さえ込んでいる面があります。

で、冒頭の話に戻るのですが、もし自分が「領収書」や「日記メモ」のようなものをどんどんEvernoteにためていきたいとなんとなくでも思うなら、そういう人は過去ログ志向で、Evernoteとの相性はいいと思います。

そうではなく、とにかくウェブクリップをためて、それをうまく整理してやったらなんか活用できそうだというイメージを持つ人は情報活用志向で、これは未来志向でもありますが、Evernoteはそういう使い方にも非常に向いているとは言え、ちょっと気をつけて使う必要があると思います。

「情報整理的な問題」を引き起こすのは、両方を混ぜて使う場合です。混ぜて使いたくなるのが当然ですし、混ぜること自体が悪いわけではまったくないのに、混ぜているうちに「整理したく」なっていき、整理したくなったとき、きれいに整理されるようには、必ずしもなっていないのが不思議なところです。

すべての、たとえ5万のノートでもすべて1カ所のフォルダに集中させておいて、あとで検索すればいいという発想もあります。が、私はEvernoteの検索機能はそこまで優れているとは言えないし、たとえ検索力が十分であっても、そういう使い方をしたいとは思いません。

たとえば「領収書」をEvernoteに取っておきたいという場合、特定の領収書が検索によって見つかればいい、というわけでもないからです。たとえば私は税理士さんとのやりとりでもEvernoteを使いますが、このときに必要なのは、「先月のすべての領収書」であって、それを検索で引っ張り出すよりは、「領収書のノートブック(フォルダ)」をつくって、そこに領収書を収集しておいたほうがよほど簡潔です。

ちなみに「領収書」は「過去ログ」の一種で、これを保存しておくのは過去志向的です。こういう「過去志向」のデータと、「ウェブクリップ」のデータは、分けておきたくなるし、認識的にも分かれているのが自然かと思います。「過去の資料」はおおむね定型的ですし、「なにに使うか?」もハッキリしていることが多い。「未来のどこかのタイミングで何かに使う」データよりは、よほど扱いやすいものです。

「日記」や「思い出の写真」などはまたちがいます。こういったものは「検索で引っ張り出せればいい」ものではまったくなく、むしろ羅列して眺める類でしょう。ただ、こういうものもやはり「定型的」ですし、整理はしやすいと思います。「日付+お出かけスポット」など、ラベリングもしやすいからです。

そういうわけで、過去ログのみにEvernoteを使うというのが、実はEvernoteを使う上では一番自然にうまくいく使い方なのではないかという気がします。しかしやはり「領収書」や「ウェブクリップ」も入れていくというのであれば、次のようなノートブックを用意することになりそうです。

  • ウェブクリップ(活用したり読み返したり)
  • 領収書(あとで提出、確認)
  • 日記(特定の日に起こったことの確認作業や思い出のための読み返し)

これらは昨日アップした、私自身のEvernoteのノートブックの中では、次のような区別の中にあります。

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Evernote仕事術

Evernote仕事術

 

 

Evernoteを「使いこなす」ために

そもそもツールに自分をあわせるべく努力をしたからといって、そのツールを「使いこなせる」ようになるとは限りません。このへんの問題があるからこそ「教習所」といったところではトレーニングの成果が確実である事を強調するのですが。

また、そもそも「ツールが使える」ようになったからといって、自分のやりたい事が本当にできるようになるかどうかはわかりません。

私が書いた本の中でも、タスクシュートに類する本をお読みいただいた人には、一見したところどういう機能があるか、なかなか全貌が見えてこないツールを「使えるようになった」結果を、先取りしたいという事があったと思います。

Taskchuteというのは、タスク管理ツールにしては「調節(「学習」と一般には呼ばれる)」が必要なツールです。調節とは、冒頭で述べたとおりギャンブル。時間と労力をかけたあげく、結局使い方がわからなかった、というのを多くの人は嫌います。当然です。

 

そもそも調節に、どのくらい時間と労力、そして意欲を注げるかは、やってみないと解らないところがあります。これはTaskchuteくらいであれば途中で挫折したりする事は少ないと思いますが、たとえば「サーフィン」「外国語」となると挫折するほうが一般的であったりします。

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私達の大半がSNS、ツイッターやFacebookのような「ツール」をTaskchuteやEvernoteよりも好んで使いたくなるのには、このようなわけがあります。使ってできる事、使いこなすまでの調節など、ほとんど不要だからです。同化と調節のバランスにおいて、同化に比重が置かれればそれは「遊び」になると、ピアジェが言うとおりなのです。

というようなことを、以前書いたことがあったのですが、最近少し修正を加えたい気持ちが強くなってきています。理由は、いやいやTaskchute別に難しくないじゃん、という気持ちがどんどん強まってきているからです。

私は湘南西部に住んでいるからサーファーという人たちがいかにたくさんいるか一年を通じて実感しますが、あんな難しい、あんな大変そうなものに、あんなに多くの人が日によっては「命がけで」挑戦しているのに、EvernoteやTaskchuteが難しいなんて。

結局「気分良くできたときのイメージ」が大切なんです。見ていると、サーフィンを気分良くイメージ通りにできている人は、決して多数派ではない気がしますが、Evernoteよりは少なくとも「イメージ」しやすい。だからまず最初の「イメージ」を忘れないことなのでしょう。その「イメージ」についてまたあしたも書こうと思います。

ちなみに私自身のEvernoteの「使用イメージ」は基本、以下のようになります。これだけではなんかよく分からないでしょうが、おいおい書いていきます。

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もうiPadをノートブックがわりにしてしまうべきなのか、どうなのか

www.itmedia.co.jp

どんどん、特に大判のiPadは「タブレット」を離れて「ノートブック」の方向に向かっているような気がします。

とはいえ、今まではやっぱりiPadをノートブックがわりには、できるようでできませんでした。少なくとも私は。

けっこうよく言われることではありますが、「それでできる」からといって必ずしも「それをするときの環境も含めて楽にできる」とは言えない。意外に気づかないで、ノートブックではいろんなことをやっています。ただ文章を打っているだけのつもりでも。

【失敗-後編-】iPadはMacやパソコンの代わりにはならない! – あいふぉんといっしょ。

ただ、新しいMacBookはたしかに薄型軽量ではありますが、「充分遅い」し、それでいて他の荷物との兼ね合いを考えると「充分に軽く」はない。それでも1000g未満なので素晴らしいけれど、100gでも軽い方がありがたいです。

昨日書いたようにメンタルハックとライフハックは、いろんなところで関わり合います。iPadをノートブックに完全に肩代わりさせるなどというのは、ライフハックなんですが、そこで「それでもできる」かどうかとか「キータッチは充分にしっくりくるか」どうかとか、「重さ」が健康に被害を与えないかといったことは、多分にメンタルハック的です。

やりたいことは結局、Ulyssesで文章作成と、パワポでプレゼン。他にはEvernoteでネタの参照くらいであり、これはウェブブラウザ版でもいいでしょう。となると、98%やりたいことはやれます。問題は、自分でも把握しきれない残りの2%くらいのことと、少なくとも最初の内には苦労するであろう「コレジャナイ感」と、iPadとキーボードと合わせても軽くなったぶんが、本当に「軽くなった感」を実感させるかどうか、かな。

メンタルハックとしてのライフハック

ほとんどこのブログのタイトルに関わることなんですが、ライフハックには非常に実用的な意味と、ほとんどワークスタイルでしかないような、ないようなといっては語弊がありますが、それほど実用的でもない面があります。

その辺で実はこのブログにはずっと迷いがありまして、その迷いがこのブログを特徴付けているんだと思ってもいるのです。

実用主義的なライフハックのほうが、ブログ記事の受けはいいでしょうし、それなりに人の役に立っている感じが出ます。そういうほうを基本的重視していきたいという気持ちは、どこかしらに強くあるのです。

でもだいたいのメンタルハックというのはそういうものではなくて、両者が私の中ではつながっていても、出してみるとえらく断絶があるのです。

「親子関係から人間関係の難しさっていろいろありますねえ〜」みたいな記事が続いたかと思うところへいきなり「iPadPro新型出ました!」となると、記事のギャップが大きく見えます。そういうようなところで更新が止まったりして。そればかりではないですが。

ただ、両者は私の中ではつながっているので、「断絶してたっていいじゃないか」ではすまないのです。そのつながりを出したいというブログなので。

で戻ってくる先は「ワークスタイル」であり、安心してと言うか、落ち着いて仕事に取り組めるワークスタイルを追求するための、ライフハックなのです。

たとえばですが、先日、こんないいことが起こりました。

honkure.net

これはけっこう素晴らしいです。で、これはライフハックなので、この記事を私も書こうと思ったんですが、なんかこう最近の記事との断絶を意識してしまった。

Kindleのメモとハイライトページが改善されても仕事が早くはならないし、残業もあまり減りそうにないし、どういうことでこの記事はこのブログに載るのかな、と考えていたわけです。わりと急に夜中に目覚めたりして。

とはいえ、このKindleハイライトの改善があって、私はKindleでますますハイライトしまくるようになったのです。安心して。つまり、私の強迫的は強すぎる、貧乏性的な性格のためには、気になった箇所の「収集」を効率よくやらせてもらえないと、ある意味落ち着いて本もよめないんだな、と。

ライフハックは、そういうこともサポートしてくれるから、メンタルハックなんです。