佐々木正悟のメンタルハック

メンタルハックをテーマにおいたビジネス書作家・佐々木正悟のブログです。ビジネス書作家のワークスタイルを中心に書いていきます

リフティングのようにミニ企画を少しずつ進める

サッカーで、手以外の体の部分を使って、ボールを地上に落とさず打ち上げ続けること。

kotobank.jp

 

 昨日、「横浜ライフハック研究室」というセミナーを関内で行いました。参加いただいたみなさま、ありがとうございました!

一瞬このセミナーの名称を「のきばトーク」にしようとしていましたが、やめました。このセミナーの前身は「ライフハック@横浜」で、実はその前にミニワークショップがあったのですが、なかなか紆余曲折を経てようやく今のスタイルに落ち着きそうです。

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昨日このセミナーのテーマは「個人企画を進める」だったのですが、私が最近やっている中でも「意外にこれが一番進んでいるな」と感じているのが、「リフティングタスク」です。これも私の勝手な造語ですが。

タスクシュートでは、ふつう「リピートタスク」を連日きちんと実行するだけで物事を前に進めます。そのリピートタスクのレパートリーを時間枠におさめつつ、実行順を徹底捜査するところがポイントなのです。

これで驚くほど物事が片づきます。なぜなら、いいかげんな順序で仕事を進めると、1つ、致命的な場合には2つ、大事な仕事を終わらせないまま翌朝を迎えるからです。それを連日繰り返すと、休日に仕事をし、徹夜して仕事をしても終わらないという事態に必ずぶつかるのです。

たったそれだけのことなのです。

しかし、タスクシュートで仕事をきっちり進めてもなお、できないことというのはあるわけで、その1つが「個人企画」つまり「自分の時間でやりたいこと」なのです。

それを私は「リフティング方式」というやり方。つまりリピートタスクの中に単発のタスクとして組み入れて、それにぶつかったら、その時できることをするか、できることがなければ、せめてやり方を少しでも考えて、それをメモするなりして、またしばらく先に送ります。

これを繰り返しているうちに、意外に進むのです。このやり方が、ちょっとだけボールにタッチしては地面に落とさない、リフティングと似ていると思っただけです。

なお、これをやるには少なくとも、デイリータスクをタスクリストにするという習慣が必要になります。

タスク管理ツール・TaskChute2

 

マンガでわかる!タスクシュート時間術〈超入門〉

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ブログには、言いたいけれど言えないこと、を書く

なぜ言えないのか、は分かりません。でもなぜか言えないことってあります。

ブログを続ける動機が問題提起されると、決まってやってくる二極思考というものがあります。PVか、書きたいことか。アフィリエイトか、「純粋な」動機からか。他人からの賞賛か、自分の内なる喜びか。というものです。

ああした記事にはどうも興味がわきいません。どっちでもない人間はどうしたらいいのか。一言も振れられていなかったりすることが多いのです。

私はどうして今日もブログを書いているんでしょう? どうもよく分かりません。

収入のため、にしては収入になっていません。いつかそうなりそうか? そうとはとても思えません。

PVのため? 多ければそれは素直にうれしいです。でも、ずっと前のほうが今の十倍くらいもありました。

書きたいことを書いているか? たぶん。書きたいことでなければ、もう書かないと思います。しかし、書きたくて書きたくてしようがないか? といわれると、そんなことはありません。書かないときは、なんだかむずむずするという人もいますが、私は大していろいろ感じません。だから書かない日もけっこうあります。

他人からの賞賛。これは、もちろんうれしいに決まっていますが、ブログを書く動機づけではないです。

自分の内なる喜び。それはそれほどありません。

すなわち以上のすべての動機づけは、それ自体ではとてもブログの更新を支えられません。どれも少しずつありまして、全部を足した「動機づけ」で書いているのかもしれません。

これらの他に・・・そう考えてみて、1つあげられるのが、「私はつい黙ってしまいがちだ」ということ。他人に対してはもちろん、家族に対してすら。本当はなにか言うべき時でも、なんだかつい黙ってしまう。黙っているほうが、しっくりくるのです。しょうがない。性格なのです。

おしゃべりです。でも、つい黙ってしまうということがある。それも、意外に自分にとって大事なことで、そうしてしまうのです。

代わりにここで書く。そういうことはあります。

これは、こう書くとずいぶん歪んでいるみたいですが、そうでもないです。ブログの特徴の1つに、文脈に依存しない話題を選べるところがあります。

たとえ「ビジネス書」や「まんが」を紹介するにしたって、何の文脈もなしにいきなり「この本面白いよ!」と言い出すのは、意外と難しいものでしょう。非常に話術に長けている人は、これでもやれるんですが、私にはまず無理です。それがフロイトの本だったりしたらもう全く無理です。

そこでブログなのです。ブログは、「読まれなくてもかまわない」。なので、いきなりフロイトの本をおすすめしたってかまいません。誰にすすめてるんだか・・・誰が読んでるんだか・・・でも自分としてはおすすめしたい・・・おすすめするに値する本だということを、自分としては疑いたくない。そして誰かが現にAmazonから買ってくれたりするのである。(ここが単に心の中で想うだけとちがう)。

というところで、くだんの、PVもアフィリエイトも気にせずそれらを気にするというスタンスが成立するわけです。

私のEvernoteの整理ルール

Evernoteをなにに使うかという話になったとき、とりあえずここで分岐することになるのが

  • 過去ログ志向(過去)
  • 情報活用志向(未来)

このどちらかということです。

Evernoteは「メモ」「資料」「記録」や「ウェブクリップ」をとっておくことのできるツールで、要するにそれだけのことなのですが、その総数は一個人でも非常に多くなりうるものなのです。

私は今、とりあえず31000ノートですが、これには「ゴミ箱行き」になったノートは含まれておらず、しかも2013年以後のものだけです。Evernoteには10万ノート問題というものもあるし、データがふえればふえるほど速度低下を引き起こしている感じがあるので、いろいろやって押さえ込んでいる面があります。

で、冒頭の話に戻るのですが、もし自分が「領収書」や「日記メモ」のようなものをどんどんEvernoteにためていきたいとなんとなくでも思うなら、そういう人は過去ログ志向で、Evernoteとの相性はいいと思います。

そうではなく、とにかくウェブクリップをためて、それをうまく整理してやったらなんか活用できそうだというイメージを持つ人は情報活用志向で、これは未来志向でもありますが、Evernoteはそういう使い方にも非常に向いているとは言え、ちょっと気をつけて使う必要があると思います。

「情報整理的な問題」を引き起こすのは、両方を混ぜて使う場合です。混ぜて使いたくなるのが当然ですし、混ぜること自体が悪いわけではまったくないのに、混ぜているうちに「整理したく」なっていき、整理したくなったとき、きれいに整理されるようには、必ずしもなっていないのが不思議なところです。

すべての、たとえ5万のノートでもすべて1カ所のフォルダに集中させておいて、あとで検索すればいいという発想もあります。が、私はEvernoteの検索機能はそこまで優れているとは言えないし、たとえ検索力が十分であっても、そういう使い方をしたいとは思いません。

たとえば「領収書」をEvernoteに取っておきたいという場合、特定の領収書が検索によって見つかればいい、というわけでもないからです。たとえば私は税理士さんとのやりとりでもEvernoteを使いますが、このときに必要なのは、「先月のすべての領収書」であって、それを検索で引っ張り出すよりは、「領収書のノートブック(フォルダ)」をつくって、そこに領収書を収集しておいたほうがよほど簡潔です。

ちなみに「領収書」は「過去ログ」の一種で、これを保存しておくのは過去志向的です。こういう「過去志向」のデータと、「ウェブクリップ」のデータは、分けておきたくなるし、認識的にも分かれているのが自然かと思います。「過去の資料」はおおむね定型的ですし、「なにに使うか?」もハッキリしていることが多い。「未来のどこかのタイミングで何かに使う」データよりは、よほど扱いやすいものです。

「日記」や「思い出の写真」などはまたちがいます。こういったものは「検索で引っ張り出せればいい」ものではまったくなく、むしろ羅列して眺める類でしょう。ただ、こういうものもやはり「定型的」ですし、整理はしやすいと思います。「日付+お出かけスポット」など、ラベリングもしやすいからです。

そういうわけで、過去ログのみにEvernoteを使うというのが、実はEvernoteを使う上では一番自然にうまくいく使い方なのではないかという気がします。しかしやはり「領収書」や「ウェブクリップ」も入れていくというのであれば、次のようなノートブックを用意することになりそうです。

  • ウェブクリップ(活用したり読み返したり)
  • 領収書(あとで提出、確認)
  • 日記(特定の日に起こったことの確認作業や思い出のための読み返し)

これらは昨日アップした、私自身のEvernoteのノートブックの中では、次のような区別の中にあります。

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Evernote仕事術

Evernote仕事術

 

 

Evernoteを「使いこなす」ために

そもそもツールに自分をあわせるべく努力をしたからといって、そのツールを「使いこなせる」ようになるとは限りません。このへんの問題があるからこそ「教習所」といったところではトレーニングの成果が確実である事を強調するのですが。

また、そもそも「ツールが使える」ようになったからといって、自分のやりたい事が本当にできるようになるかどうかはわかりません。

私が書いた本の中でも、タスクシュートに類する本をお読みいただいた人には、一見したところどういう機能があるか、なかなか全貌が見えてこないツールを「使えるようになった」結果を、先取りしたいという事があったと思います。

Taskchuteというのは、タスク管理ツールにしては「調節(「学習」と一般には呼ばれる)」が必要なツールです。調節とは、冒頭で述べたとおりギャンブル。時間と労力をかけたあげく、結局使い方がわからなかった、というのを多くの人は嫌います。当然です。

 

そもそも調節に、どのくらい時間と労力、そして意欲を注げるかは、やってみないと解らないところがあります。これはTaskchuteくらいであれば途中で挫折したりする事は少ないと思いますが、たとえば「サーフィン」「外国語」となると挫折するほうが一般的であったりします。

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私達の大半がSNS、ツイッターやFacebookのような「ツール」をTaskchuteやEvernoteよりも好んで使いたくなるのには、このようなわけがあります。使ってできる事、使いこなすまでの調節など、ほとんど不要だからです。同化と調節のバランスにおいて、同化に比重が置かれればそれは「遊び」になると、ピアジェが言うとおりなのです。

というようなことを、以前書いたことがあったのですが、最近少し修正を加えたい気持ちが強くなってきています。理由は、いやいやTaskchute別に難しくないじゃん、という気持ちがどんどん強まってきているからです。

私は湘南西部に住んでいるからサーファーという人たちがいかにたくさんいるか一年を通じて実感しますが、あんな難しい、あんな大変そうなものに、あんなに多くの人が日によっては「命がけで」挑戦しているのに、EvernoteやTaskchuteが難しいなんて。

結局「気分良くできたときのイメージ」が大切なんです。見ていると、サーフィンを気分良くイメージ通りにできている人は、決して多数派ではない気がしますが、Evernoteよりは少なくとも「イメージ」しやすい。だからまず最初の「イメージ」を忘れないことなのでしょう。その「イメージ」についてまたあしたも書こうと思います。

ちなみに私自身のEvernoteの「使用イメージ」は基本、以下のようになります。これだけではなんかよく分からないでしょうが、おいおい書いていきます。

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もうiPadをノートブックがわりにしてしまうべきなのか、どうなのか

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どんどん、特に大判のiPadは「タブレット」を離れて「ノートブック」の方向に向かっているような気がします。

とはいえ、今まではやっぱりiPadをノートブックがわりには、できるようでできませんでした。少なくとも私は。

けっこうよく言われることではありますが、「それでできる」からといって必ずしも「それをするときの環境も含めて楽にできる」とは言えない。意外に気づかないで、ノートブックではいろんなことをやっています。ただ文章を打っているだけのつもりでも。

【失敗-後編-】iPadはMacやパソコンの代わりにはならない! – あいふぉんといっしょ。

ただ、新しいMacBookはたしかに薄型軽量ではありますが、「充分遅い」し、それでいて他の荷物との兼ね合いを考えると「充分に軽く」はない。それでも1000g未満なので素晴らしいけれど、100gでも軽い方がありがたいです。

昨日書いたようにメンタルハックとライフハックは、いろんなところで関わり合います。iPadをノートブックに完全に肩代わりさせるなどというのは、ライフハックなんですが、そこで「それでもできる」かどうかとか「キータッチは充分にしっくりくるか」どうかとか、「重さ」が健康に被害を与えないかといったことは、多分にメンタルハック的です。

やりたいことは結局、Ulyssesで文章作成と、パワポでプレゼン。他にはEvernoteでネタの参照くらいであり、これはウェブブラウザ版でもいいでしょう。となると、98%やりたいことはやれます。問題は、自分でも把握しきれない残りの2%くらいのことと、少なくとも最初の内には苦労するであろう「コレジャナイ感」と、iPadとキーボードと合わせても軽くなったぶんが、本当に「軽くなった感」を実感させるかどうか、かな。

メンタルハックとしてのライフハック

ほとんどこのブログのタイトルに関わることなんですが、ライフハックには非常に実用的な意味と、ほとんどワークスタイルでしかないような、ないようなといっては語弊がありますが、それほど実用的でもない面があります。

その辺で実はこのブログにはずっと迷いがありまして、その迷いがこのブログを特徴付けているんだと思ってもいるのです。

実用主義的なライフハックのほうが、ブログ記事の受けはいいでしょうし、それなりに人の役に立っている感じが出ます。そういうほうを基本的重視していきたいという気持ちは、どこかしらに強くあるのです。

でもだいたいのメンタルハックというのはそういうものではなくて、両者が私の中ではつながっていても、出してみるとえらく断絶があるのです。

「親子関係から人間関係の難しさっていろいろありますねえ〜」みたいな記事が続いたかと思うところへいきなり「iPadPro新型出ました!」となると、記事のギャップが大きく見えます。そういうようなところで更新が止まったりして。そればかりではないですが。

ただ、両者は私の中ではつながっているので、「断絶してたっていいじゃないか」ではすまないのです。そのつながりを出したいというブログなので。

で戻ってくる先は「ワークスタイル」であり、安心してと言うか、落ち着いて仕事に取り組めるワークスタイルを追求するための、ライフハックなのです。

たとえばですが、先日、こんないいことが起こりました。

honkure.net

これはけっこう素晴らしいです。で、これはライフハックなので、この記事を私も書こうと思ったんですが、なんかこう最近の記事との断絶を意識してしまった。

Kindleのメモとハイライトページが改善されても仕事が早くはならないし、残業もあまり減りそうにないし、どういうことでこの記事はこのブログに載るのかな、と考えていたわけです。わりと急に夜中に目覚めたりして。

とはいえ、このKindleハイライトの改善があって、私はKindleでますますハイライトしまくるようになったのです。安心して。つまり、私の強迫的は強すぎる、貧乏性的な性格のためには、気になった箇所の「収集」を効率よくやらせてもらえないと、ある意味落ち着いて本もよめないんだな、と。

ライフハックは、そういうこともサポートしてくれるから、メンタルハックなんです。

「顔から火が出るほど恥ずかしいこと」を思い出すのは脳のエラーだとすると?

 

なぜ、「あれ」が思い出せなくなるのか―記憶と脳の7つの謎

なぜ、「あれ」が思い出せなくなるのか―記憶と脳の7つの謎

 

 フロイトは「無意識」という「心の場所」を想定したとき、同時に「意識」と「前意識」という場所も区別のために名づけました。

この「前意識」を「無意識の中のいささか意識的な部分」みたいな非常にわかりにくい説明をする人もありますが、そういうものではなくておそらく、「ほとんど短期記憶とイコール」だと思います。

つまり、「前意識」というのは、今思い出そうと思えば思い出せるが、一時的に忘れている意識内容のことで、今なら「さっき奥さんがやって来て何を言ったか」みたいなことです。

それが思い出せないとか、相当の努力を払ってもハッキリは思い出せないなら「無意識」に属するということになるわけです。だから「記憶の検閲」などといった話になるわけですね。

とにかく、記憶にはなぜか「ものすごく努力しても思い出せない、壁が乗り越えられない」みたいな内容がけっこうあります。

一方で、「思い出さなくていいのに、強引に意識に入ってくる」ものもあります。冒頭の「顔から火が出るほど恥ずかしい」ことを頻繁に思いかえしては、自分を責めさいなむ人というのは、実際いらっしゃるのです。

たとえばこの人とか。

 

妻に恋する66の方法(2) (イブニングKC)

妻に恋する66の方法(2) (イブニングKC)

 

 なぜなんでしょう? なぜ無意識とか自我といった「システム」は、もっとこう、自分に都合良く働いてくれないのか? なぜ「アイサツ」を漢字で書きたいときには、「検閲」なぞをかける一方、言わなくていいことをセミナーで言ってしまったことを忘れさせてくれないのか?

PTSDというものがあります。あれでフロイトはかなりなやんだと言われます。精神分析には「快感原則」という考え方があって、夢というのは、言ってみれば満たされない願望を満たしてくれる疑似体験なのです。小学校時代に好きだった女の子とデートした夢とか、あんまり見た覚えがないのはどうしてくれるんでしょうかね。

しかし私の生ぬるい悪夢などはまだしも、第一次大戦の悲惨な経験をフラッシュバックのような形で夢に見るというのは、一体どこが「願望充足」で「快感」だというのかというと、明らかにそうとは考えにくい。

そこでフロイトは、私からするとどうしてもやや苦し紛れのようにして(ここのところには確かに論争があります)「死衝動(タナトス)」といったものを考え出したと思います。そういうものが、「生の衝動」に対する1つのカウンターバランスみたいに、最初から人間には備わっているといった主張があるのです。

「死の衝動」は仮に考えから外しても、記憶には先に言ったような「不都合な機能」ないしは「機能不全」がどうもあります。私のライフハック仲間も「黒歴史」とか言ったりして、妙に自分の過去を気に病んでいたり、気に病まないまでもこだわっています。忘れちゃえばいいわけですよね。だいたい。

これがもし「エラー」なら、無意識の機能を「正常化」してやれば、そんなにつらい過去をいちいち思い出さないか、思い出すにしてももう少し「受け入れやすい形にして」思い出すことができるのかもしれない。

こうしたことというのは、実はけっこう高度というか、難しい話になっていくわけですが、無意識の使い方(?)が観察していると妙にうまい人というのは、確かにいるという気がしています。つまり、その人にも恥ずかしい過去や嫌な思い出はあるはずなのですが、「思い出し方」が巧みな人というのはいる気がします。

そしてそれが意外でもないでしょうけど、精神的健康にかなり役立っていると思われるわけです。

不安がキツい、場合

不安というのはあまりにわけのわからない言葉で、かつあまりに幅広い言葉なため、心理学とか精神分析の辞書を引いても、長い長い解説があったりします。

「漠然とした不安があって、仕事がなかなか手につかない」

よくよくこれを考えてみると、何を言っているのか、ぜんぜんわからないのではないでしょうか。これが「わかるわかる」となるのは、ただ自分の感覚に当てはめて、「私もそうだ!」と言っているにすぎないでしょう。「私もそうだ!」と「あなたのそうだ!」が一致しているとは誰も保証していません。

不安がひどい場合、私は少し前に戻ってみる、ことにしています。他に方法が考えつかないのですが、これはたぶん精神分析で言う「退行」とかいうもので、なんともネガティブな響きがあります。

あるSF作家が「母親の羊水に戻りたい戻りたいような変態的で脆弱な人間と私はぜんぜん違うぞ!」とヒーローに言わせてて、こういう作家とフロイトはそりゃ相性最悪だなと思わずにいられなかったものです。フロイトの言っていた「退行」はそこまで具象的で極端なものではないと思うんですが。

しかし、現状直面することになってる問題(かなにか)の「不安」というものは、そもそもどうしてこんなことになったのか?と人間だったら考え始めると思うのです。つまり「ちょっと前の状況に戻ってみたら、現状のようなことを始めるにいたる動機づけがあったはず」ですし、その時だって同じような不安を抱えていたはずなのです。

私は今物書きがメインの職業ですが、いまはやりの「承認欲求」というものと職業的不安が当然リンクしています。

ではそもそも、どうしてものを書いて生計を立てる今のような状況に至ってしまったか?というと、その前のところに記憶を巻き戻してみるでしょう。そういうところに立ち返ってみてうじうじ考え直すということは、これは「退行」的ななにか思索に近いと思うんです。

その時だって、こういうことを始めるにあたって不安だったはずで、今よりその不安がキツかったはずです。なのに結局やり出せたということは、それとはまたべつに、強い期待感のようなものや、やむを得ず押し出された何らかの圧力があった、と考えられます。それを思い出すのは、こういった場合には有益と思われます。

おそらく「こんなウンコみたいなものを吐き散らかしやがって!」と罵声を浴びせられるような不安を、考えますね。一般的に言っても。

そのウンコみたいなもののまた連想で、フロイトが思い出されてしまうのです。フロイトってすごいなと思います。

肛門期、というのは字面もすごくて、教科書にこれが出てきて忌避されないわけがない、と思うのですが、でも子どもを持ってみるとよくわかります。ウンコは贈り物である、というのは少し言いすぎな気がしますが、誰かが踏ん張って、「トイレでウンコ」してくれて、あれほど嬉しいと思うことは、まあないわけです。した人も嬉しいですよね。親がやたらと喜んでくれるわけですから。

精神分析の世界ではよく、この喜びに固執しすぎるとなのか、ここで親が喜んでくれないと、なのかわかりませんが、「きちんとする」ことに「過度にこだわる」から「完璧主義」みたいになるというアイディアが生まれたようです。つまり「肛門期」と「偏執狂」(異常な完璧主義のような)は強く相関するという。これはたぶん1つのよくできた比喩なのです。

こんなふうに不安の種はうんと幼い頃までさかのぼることもできますし、そこまでさかのぼらなくてもきっと同じようなパターンは随所にあったでしょう。自分が「出したい」と思うものを「きちんとしたシチュエーションできちんと出す」とたいそう喜ばれるが、失敗するとウンコを漏らしたみたいな反応を示されることになるという。

しかし自分が出したいと思うものを、好き内容に出す権利だってあるじゃないか!という自分側の思いも無視はできません。じゃないと親を喜ばせるために無理やり出したくもないのにトイレでがんばる、みたいなことになりかねませんから。

こういうことと、承認欲求の悩み(不安)で訴えられることって、よく似ていると思うわけです。

 

『裸でも生きる!』は素晴らしいと思うが、服ぐらいは着ているもの

 

裸でも生きる ~25歳女性起業家の号泣戦記~ (講談社+α文庫)

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 「佐々木さんが今のように人脈も、編集さんの知り合いもいらっしゃる状況ではなく、お金もなく、今のような知名度もなかったら、どうされますか?」という質問をいただいたことがあります。

言わんとすることが分からなくもないのですが、どうしてそういうことを考えないといけないんだろう、と思わずにはいられず、思わず「困りますね」と言いました。

おそらく本当にそういうことになったら、誰だって困るでしょう。困らない人もあるかもしれませんが、少数派だと思います。

しかし、よくよく考えると人間というのはほとんどの場合、しがらみによって困っていることのほうが多く、あまりになにもなくて困っている、ということは少ない気がします。

中島みゆきさんの「ファイト」という歌詞に「薄情もんが田舎の町に あと足で砂ばかけるって言われてさ 出てくならお前の身内も住めんようにしちゃる」とかいったのがあったと思うんですが、こういうのがなんと言っても「困る」ものです。

大好きだというわけでもないのに、縁を切るのは許したくない、というような「縁」がけっこうあったりします。

私たちのネタとか、個性というのは、だいたいが所与のものです。中島さんも、そういう経験が本当にあったかどうかは分かりませんが、歌詞でネタにしているように。つまり、いきなりなにもないところへワープすることって、実際にはないと思うんです。

だから「無人島でのサバイバル術」みたいなものは私には全く持ち合わせがないのですが、「アトピーで、ぜんそくもちで、父が坊主で、学生時代にモテないことをこじらせて、なんだかんだでライフハックが好きで、形而上的にものを考えがちな佐々木正悟」で、生きる、ということならなんとかなるような気がします。

 

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「自分が自分じゃない」のなら何をやっても落ち着けない

30代の男性
「『恨む』とか『なんでだ』とか喪失感とか、自分が自分じゃない状況でいたので、『ごめん』なんて言葉は出てこなくて、『なんでだ』って。」

www.nhk.or.jp

自分が自分じゃない状況」っというのは一体何なんだろう、と考えさせられますが、逆に「自分が自分である」とはそもそもどういうことなんでしょう?

人間の意識だとか心は「統合に向かっている」ということになっているようです。なっているようです、というのは、じゃあどのように統一されていて統合されているのかが、ちゃんとした説明を聞いたことがないように思うのです。脳科学精神分析家から「このように、心は統一されています」というコンセンサスの得られた統一見解を、聞いた覚えがありません。

でも統合「失調症」などというんですから、統合=正常だというわけでしょう。

とは言え、分裂がつらい状況であるから、統合が「正常」なんだろうな、というのは想像がつきます。私は慢性的なアトピー持ちのため、「かゆみ」がひどいと、意識が統合されずにイライラのタネになるということは、年がら年中身にしみてわかっています。

「現実」と「意識」は実像と鏡みたいなところがあって、「現実」がどうであっても、意識内容さえ統合されてればいいとか、なかなかそんなわけにはいかないようです。

かわいいわが子が自分のそばにいて、自分に好意のまなざしを向けていてくれるという「意識内容」は、現実にそうでないと成立させられないので、意識の上ではわが子は好意的で家にいるはずなのに、実際にはそうでないとなると、強烈な意識の分裂を生み出して、それを統合させようとすればするほど、苦しい思いをすることになります。

(「ストーカー」というような問題が発生するのは、意識内容の根拠となる経験がしばしば脆弱なせいです。たとえば「あの女性は自分に好意を持っている」という根拠が「ある」のに、現実にはまったくそうではないといったとき、意識の分裂(ひどい苦痛)といった問題が発生しますが、「好意を持っているはず」だという意識の根拠が「1度だけ話をしてその時話が弾んだ」ではいかにも物足りません。それでは「意識内容」と「現実」との間にずれが生じても文句が言えないわけです)。

それほど深刻ではなくても、「そこそこうまくやっていたはず」の会社の上司と、決定的な対立に至ってしまうというようなとき、意識の分裂が起こったりするでしょう。

分裂した意識内容はひどいかゆみのように、常に「統合」の妨げになるため、なにか他のことに注意を集中できなくなります。なにやっていてもあのことが気に掛かる、という意識状態に陥ります。

つまり「自分が自分である」というのは、そういう引っかかりに意識のエネルギーを吸い取られていないような、「正常感」にあると思います。そういう時は「現実」が「意識内容」と、だいたいのところ一致しているという思っていて、安心していられるということです。

上司との関係は良好であり、それを強く否定するような実情は、今のところ現実のどこにも存在していない、というたとえば状況なわけです。

逆にいえば悲観的なようでも、意識内容≒現実の反映という図式をある程度成立させられれば、実は苦しみが和らぐ(理想的な喜びにはほど遠くても)ことはあるわけです。上司との関係も「そこそこうまくやっていたはず」ではなくて、元から相当緊張関係にあったと「思い至る」ことはあるでしょう。すると、もちろん嬉しい話ではないにせよ、「心の傷」はいやされたりします。

30代の男性
「母が『やめなさい』と。
恐ろしい、怖いって思ってるかもしれないって。
そういうことを考えた時に、会いに行くのやめようって思って。
少なくとも僕からは距離をとらないと、彼女(妻)は冷静になれないし、苦しいだろうからって思うように今はなりました。」

去年12月、男性は子どもたちにクリスマスプレゼントを買いました。
しかし、このときは妻に連絡せず贈ることを思いとどまりました。

30代の男性
「いつか『プレゼントほしい』とか、『会いたい』と言ったときに渡せばいいかなって。」

男性は、いつか妻と子どもたちに会える日が来ると連絡を待ち続けています。

上の引用の続きです。これだって心理的には苦しいと思いますし、よく受け入れられたなと感心させられますが、「会えねば絶対に問題は解決しない」となったら、もしかしたら本当に生涯の苦しみになってしまうでしょう。

本当につらいのは心の分裂状態でありますから、統合させるには、現実が変えられないなら、認識を変えるしかないわけです。これは自己啓発でよく言われる上に、非常に安直に言ってくれるものだと思われるものですが、現実的に不可能な認識を抱きつづけることが、いちばん苦しみを生み出すというのはたぶん本当なのでしょう。

 

1年前の運動会の日、どこにシートを広げ、なにを食べ、どんな不都合があり、どんな夫婦喧嘩をしたか?

それを知りたいと思うのは、運動会の前日です。

記憶はどうしても断片的であり、しかもなかなかあやふやであり、ものの役に立てるには、いってみれば不便です。

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こういう設計図をもとにして次のようなお弁当をつくっていました。

これが

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これが去年のものです。

なるほどね。

娘はこれがたいそう気に入ったらしく「ほぼまったく同じようにつくれ」という要求だったので、ほぼまったく同じようなものが今年もできたわけです。

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これが簡単に呼び出せるようになっただけでも、今はずいぶん進んだものですが、やっぱりこういう日は、記憶という記憶が呼び出せると、ずいぶん楽ができるはずなのです。

でもなかなか記録を残し切れていない。まだまだ足りない。まだまだ足りないということを知るだけでも収穫といえば収穫です。

日記には、次のようにありました。

 

仕事はほぼ皆無。

こう言うことはある。
疲れ切った。
この日、何かをしようと思わないことだ。

 

帰宅してみて、なるほど今日は、ブログを書くのも大変だということが分かりました。

完璧主義はやめられる

まぁ、びっくりしましたね。9割くらい自分に当てはまってるんです。自惚れな言い方でスミマセンが、「これはわたしに取材して書いた本なのか」と思ったくらい。

www.irobana.com

決して「自惚れ」を心配していただくには及びません。

しかし私が驚きました。この本が3割くらい当てはまる人は、日本なら多かろうとは思って書きましたが、9割も当てはまるというかたがいらっしゃるとは。それではさぞ生きにくいでしょう。

「自分がダメ」というのももちろん思い込みなのですが、その思い込みが養育歴によるものだということも多い。

「おまえは元来いいかげんだから、人の十倍ちゃんとして、ようやく人並みだ」

とお父さんが言ったとして、お父さんが完璧だったり、人の十倍もちゃんとしているということは、はっきりいってきわめて希です。が、幼児にはそんなことはわからないので、とても素直な子どもだと、それをそのまま呑み込んで、人の十倍もちゃんとしようとしてしまうのかもしれません。

たいていは、途中でいやんなっちゃうし、父さんも母さんも完璧にはほど遠いことを目の当たりにしてますますいやんなっちゃいますが、そうならないケースにおいて深刻なのです。希に父母が本当に「ほぼ完璧」だったりすると、事態がますます悪くなりかねません。

つまり、父母が完璧でもないのに子どもに完璧を期待するのはダメですし、父母が完璧ならばますますダメです。だからどっちみちダメなのですが、完璧主義の原理的な不可能性より困るのは、物事の一般的に目指すべきは「バランス」であり、「自分の感覚に重きを置く」とは好きなバランスを見つけることなのに、完璧主義はひたすらそれを見失わせるところです。

昨日ブログでPVの話などを書きましたが、たとえばブログを書いていても気持ちよく運営できているときというのは、ほどよく人目を気にしつつ、自分の言いたいこともほどよく盛り込めているようなときです。これはうまくいっているブログを読むとたいてい感じることです 。

「他人の賞賛など気にしない!」とか「PVがすべて!」とかいうのは、たいていは軸を1つ立てたくて、あえて言うことでしょう。バランスを取るプロセスにおいて、いったん極端な旗を立ててみるわけです。

でもそれが日常になってしまうと、完璧にやるかいっさいやめてしまうか!といった選択に走りやすくなります。そういう不便な蛇口やガスコンロ、たまにありますね。最大出力か、閉じてしまうか。何か急に取り憑かれたように大掃除するか、部屋がぐちゃぐちゃのままにしておくか。京大式カードを大量に買い込むか、メモをいっさいしないか。

好きでそうしているわけではなく、「好きでやれる部分」が自分の中には見あたらないわけです。

でも、そうした極端な性向は「やめる」ことができます。私にしても他の誰にしてもバランスとは最初から持っているわけではなくて見出すものですし、見出せるということは、極端に走らないということなので。

人生の推理小説みたいなコミック

推理小説のおもしろさというのは、私にとっては要するに「あ、それは気づかなかった」というものです。たぶんかなり一般的でしょう。そう考えればよかったのか、と。

中学受験時代の算数の問題みたいなものです。ただし、中学受験においては、試験会場で「それ」に気づくというのでは遅すぎるため、あれは出来レースみたいなところがあるのですが。

戸田誠二さんという人の描くコミックのおもしろさはそうした「落とされかた」にあります。どんでん返しというのとはちがうのですが、最初に呈示された状況に関する視点をまず与えられ、さいごに新しい視点を与えられ、相対化できるわけです。

 

生きるススメ

生きるススメ

 

 そういう小説は、特にショートショートにたくさんありますが、この著者の作品には、「人情で落とす」というユニークさがあって、そのため、シュールな感じがほとんどないのです。たいていの「新しい視点を得る」ことで解釈の変わる単話には、シュールさがつきまというものです。星新一さんのSFが代表的ですね。

『生きるススメ』には、よくこんなに考えつくな、というくらいたくさんの「1ページもの」がつまっています。さいごのコマでたいてい情緒で落とされるというのは、他にはあんまりない気がします。

たとえばこんな感じです。

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PVが大事でないとあえていうブロガーにとって「読者」とは何なのか?

読んでいてちょっと何かを感じさせられるブログってありますね。いろんな意味で。

「私は読者のことはなんとも思っていない!」

とか

「私はPVなどまるで気にしないっ」

とか言われますと、読んでいる私は何なんだろう・・・と気にも留めないまでもかすかには思うわけです。

それとはまたちがう文脈のことですが、シゴタノ!で「観察者効果」がじっくりと取り上げられていました。といっても物理学でいうこの問題と、心理学でいうこの問題とは、けっこうちがうわけですが。

cyblog.jp

唯物論的な科学が非常に力を発揮した頃、この問題はまだそんなに顕在化していなくて、「実験結果に観察者が影響をおよぼしたら、そりゃダメに決まっているだろう!」と直感的に思われていたはずです。

しかし現実の世界はそうは決していかないわけで、どんなにお医者さんが「科学的」だとしても、たとえばまったく効果のない中身の空っぽの「クスリ」を手渡すのが、お医者さんだった場合にはよく効いたりしてしまいます。

精神分析の世界ではそもそも観察者が効果を及ぼすことそれ自体が「治療」の重要な要素を担ったりして、それを「転移」と呼んだりするくらいです。

ブログを書いたりSNSに参加することになって、ちょっと突っ込んで活動を始めると、とたんにこの問題を強烈に意識し始める人がたくさんいるはずです。たくさんの人に読まれることに価値があるのか。1人でも読んでくれればそれでいいのか。チヤホヤされたいけど、中身がまったくないままチヤホヤされているように見える人もいるし・・・。

そもそもまだまだチヤホヤにほど遠い人間は、一体誰に向けてブログを書けばいいのか。よく言われるように「自分の心の中に読者を持つ」べきなのか。

ちなみに私は、もうどんなアドバイスともちがっている自分がいて、その自分が書いています。たしかに「自分の中の自分」に向かっているようでもあります。しかし、リアルなSNSの反応を気にしている自分もいます。しかし、そんなことを気にしない自分も大事です。不意にPVが跳ね上がると不意にモチベーションが高くなりますが、その翌日にはブログが書けないということもあります。

かと思えば、どんどん低調になっていることがまったく気にならないということもあり、でもずっと低調なのがいやになってかけなくなったりもする。

というところです。これが正直なところです。

「毒親」が「私」に望んでいたことと「私の本当にやりたいこと」

 「毒親」って何のこと? という人も居ると思います。こういう本があるのです。

毒になる親 一生苦しむ子供 (講談社+α文庫)

毒になる親 一生苦しむ子供 (講談社+α文庫)

 

 あんまりおすすめはしません。必須という人にはすでにこういう本をご存じだろうと思います。先に断っておきますが私は両親に恵まれていたと思うし、従ってこの本に特別な感銘は受けませんでした。しかし、一文一文に肯かされるという人が居て、不思議ではありません。

親と「特別な問題」があったとは思わない私にしてもしかし「自由か束縛か」といった葛藤と無縁であったわけではありません。こういった問題は、問題であるときは常に両極端の間を振れます。100%の自由か、しからずんば牢獄か。といった感じになりやすいのです。

毒親」という造語は、どうもいただけないといろんな意味で思うのですが、「自分がやりたいことって何だろう?」という問題が、たとえばライフハック界隈から聞こえてきたとき、頭をよぎるキーワードが「毒親」だったりするのです。

うんと昔をたどったら、私もかつては母でした。つまり、母子が物理的な意味で「一体」だった時代というのは、あったはずです。

そのときには「佐々木正悟」というのは母体の中にあるわけですから、「私の望み」とはすなわち「母の欲望」と同一のはずです。「母が」何かを「私」に望むという形式が成立するのは、「私」が現実に客体としてあった以後のことになるはずです。

私がこの世に生を受けた以後であっても、ごく幼い頃には、「私の望み」というものは、「母が私に望むこと」とたぶん同一であったでしょう。仮に親が「毒親」であったとしても、子供というのは得てしてそうしたものです。

しかし、いつの頃からか「私の望みは私の望み」だという時期が訪れます。しかしそうなったとき、たちまちなにもかもリセットされ、それまで「母の望み」=「私の望み」であったものが、いきなり「我が頭脳にひらめきし稲妻のごとき欲望」が純然たるオリジナルに取って代わったというのもおかしな話です。

フロイトは「エスのあったところに自我をあらしめる」というようなのを理想とした時期があったようですが、あらしめるべきかどうかは別として、私の願望の起源が、母の望みから何の影響も受けていないとは考えられません。

が、先に書いたとおり、独立間もない頃には「自由か、死か」みたいな思考になりがちなため、「母の影響とおぼしき願望はすべて私の希望と認められない」といった発想になりがちです。そうやってあらゆる願望に検閲をかけてみると、残るはなにもない、といったことにしばしばなるのです。

毒親」が「私」にかける期待などに、私は鼻も引っかけられない!という心情だったことが、つまり私にもあったわけですが、それだと「なら私は何を望んでいるんだ?」という困惑に直面することになりやすいのです。

エスがあったところに自我をあらしめるもなにも、エスがあったところ(=親の望んだこと=母子一体だった頃の自分の望みでもあるもの)に「自我」を決してあらしめまいとしているのが「自分」のわけですから、どうしようもないわけです。

月日が過ぎ、事態が今となっては、ここで書いている「親」も「毒親」も、神話のたとえ話のようなものでしかありません。「親」などすでに他界しているという人も居るでしょうから、よけいです。

たとえば「親」がかけていた期待というのを、「教師」がでも「学校」がでも「会社」がでも「社会」がでもいいわけでしょう。

なんであれ、「それ」のくびきから離れたとき、私はおそらく「私が本当にしたいこと」を見つけ出そうとしたのです。しかし「私が本当にしたいこと」は「かつての期待」の影響を受けずにはすまないのです。

だから「エスがあったところに自我を」というか、くびきから離れる前に期待されたことと、離れたときの「私が望んだ」ことの混合液のようなものの中に「私の本当にやりたいこと」のヒントがありそうに思うのですが。