佐々木正悟のライフハック心理学

ビジネス書作家・佐々木正悟の公式ブログです。なるべくならお役立ち情報を出していきたいと思っています。

自由時間は台風の目

台風19号一過、大変なことになっています。これをお読みの方はいまご無事でしょうか?

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私の住む町は一時、「台風の目の中」に入りました。一瞬でとてもしずかになりました。

GTDをはじめとし、タスクシュートも「これ」を目指します。自由は、目の中にしかないのです。今朝もそんなような話をしました。

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いまは義務を果たし、仕事をし、宿題を済ませてから、後で「自由」を満喫する。

そんなわけにはいきません。

私は毎日「今日」にしか行けないのです。いつでも私たちが生きているのは「今日」だし、いつでもタスクを実行するのは「今」なのです。

自由になれるのも計画を立てられるのもいちばん手元に近い時空間。つまり「現在」です。ここにしか自由というものはなくて、たとえタスクが嵐のように吹き荒れていても、やっぱり手元は台風の目のようにいつでも平穏で自由です。

タスク管理は記憶力を強化するためにある

タスクシュートだろうとGTDだろうと、タスク管理の目的というのは

記憶力の強化

にあります。

現代社会は、少なくとも人類がいまのように初めてなった時代よりは複雑であわただしいため

記憶力を強化しないと、物忘れだけでも致命的なことが起こる

恐れがあるわけです。

この恐れとほぼおさらばできるだけでもタスク管理する意義はあるのです。

が、これだけではさすがに「たいしたものじゃないな」と思われるので、そのほかのメリットも上げる必要があるでしょう。

いろいろありますが、最大のものとして、

妄想を停止させる

という機能がタスク管理にはあります。

記憶のいいところは、連想です。パンダ、パンケーキ、バター、ミルク、クルミというように、パンダがクルミにつながったりします。

これはいささか奇妙な機能ですが、こういう機能があるからこそいろんな場面で驚くような役立ち方をするのが記憶力なのです。

が、この機能はしばしば悲劇につながります。

仕事がたくさんある→こんなにたくさんの仕事をしていたらストレスだ→ストレスといえば心臓に悪いかも→でも仕事を辞めるわけにはいかない→仕事を辞めたら路頭に迷う→いま貯金いくらあった?→こんなに働いていても貯金がゼロに近い→生きている意味がないような気がしてきた・・・

何かこの種の連想には非常に「理にかなった印象を心に与える」ところがあるのですが、

仕事がたくさんある→生きている意味がない

だけ取り出してみると、パンダがクルミになるよりはまし、と言った程度のつながりしか見えてきません。

どこから間違ったかといえばそもそも

仕事がたくさんある→こんなにたくさんの仕事をしていたらストレスだ

あたりからもうちょっと怪しいのです。できれば

たくさんの仕事を書き出してみる!

というのが望ましい。書き出してみても仕事が減るわけではないし、かえって絶望しそうに思われるかもしれませんが、何もしないうちから人生そのものに絶望するよりはまだしもです。

記憶力の強化という機能の中には、記憶力による連想が、異常な妄想につながるのを防ぐということもあるのです。

グッドバイブスとタスクシュートの両立について話します

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秘かに13回目になるんですよ。

表題の「両立」にはわたしもしっくりいかないのですが、うまい表現が思い浮かばない。

「自分の時間」を大切にして、「今日の計画」に邁進しているかのようなタスクシュートと、「計画を手放す」「“自分の”を手放す」と手放してばっかりのグッドバイブスがどうして同じ人間の中で並立しうるのか、疑問に思う人も好奇心のわく人もあるかもしれません。

そういう方にぜひ来ていただければ、いちおうの説明は出来ると思います。

そうでもないという方にもぜひ1度来ていただいて、横浜中華街の「馬さんのお店」を5人以上で愉しむととても楽しいと思います。

中華街のお店はおいしければおいしいほど、1人や2人では満喫しきれないのです。ライフハック横浜の大きな醍醐味です。

気がつけば壁の花になってしまっているのです

サークルもゼミもがんばらず、適度にアルバイトをしてデートして、なにも突飛なことをせずに過ごしてしまった学生時代は、魅力的な自己PRをするための材料が明らかに不足していました。

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しかし私は大学時代、まさにこういうことをしたくてしたくて全力を尽くしていたのについにできなかったのだよな、と思い出しました。(リンク先は有料記事となります)。

人は他人のことをうらやましがる。

このような「絵に描いたようなキャンパスライフ」を送る人になるには、私は学生時代から、どこか完全にズレていて、そのズレに必要以上に苦しんだ時代がありました。

いまはそれに苦しむことがすっかりなくなったのですが、先日、「もう少し考えねばいかんか」と思って、倉園佳三さんに「公開収録」の場でお悩み相談してみたのです。

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(こちらはすでに終了しました。)

「倉園さん。どうも私はイベントやパーティ会場で、「壁の花」になってしまうんですよね・・・」

それの何がいけないのか、というのが倉園さんをはじめ、その場にいた方のコンセンサスだったし、やっぱりそういうものなのだと思ったのですが、いけなくはないのですが、どうもやっぱり何か「仕事をさぼっている」気がしてしまうのですね。

思い返せば私は「一人が好き」と言うよりも、お風呂に入るのが面倒だという人の気持ちがまったく理解できないほど、「気がつけばお風呂に入っている」(しずかちゃんか?)性質であるように、「気がつけば一人になっている」人間なのです。

そしてなんと私は最近、まさに自分の娘が、私とまったく同じ性質を持っているらしいことを知り、「そっか。これに性別はなく、好き嫌いは関係なく、友達の有無も関係なく、基本的な気質としか言いようのないモノか」と納得したのです。

(娘は友達も多く、私よりずっと社交的で、気も利くし、一人が好きとは到底見えないのに、気づけば一人になっているのです)。

一人が好き、なのではなく、一人になってしまっている、のです。しかもそのことにしばらく気がつきもしないという。一人でいることに寂しさとか苦痛を覚えたことは、考えてみると一秒もありません。

ただ、自分が主催もしくは特に共催の時、ゲストではなくホストとしては、大橋悦夫さんとか倉園佳三さんとかが「頑張っている」(というのは私の勝手な憶測ですが)のに、私だけ部屋のはじで(背後に誰かに立たれるのは好かない。ゴルゴ13とは関係ない)突っ立って、ウーロン茶持ちながら(何か持ってないといけない気がして)、ツナ(好物)ののったタルト(立食パーティ定番)のようなものをかじって落ち着いているのは、自分だけ気持ちよくお湯につかっているような後ろめたさを感じるわけです。

これに加えて以前は、「自分を売り込まないフリーランスは死ぬ」というデタラメな教訓に「恐れと不安」でいっぱいだったため、名刺を配りまくっては「iPhoneはお持ちですか?」から会話を始めるという、意味のあるのないのか(ないのだ)わからんようなことをずーっと繰り返して

脳内はただひたすらに「つまんねーーーーーーー!!」。

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最近はさすがにこういうことは止めましたが、会話を始めると、何かしら本題に入ることができずにいると、結局似たり寄ったりというか、「努力」が減ったぶん沈黙が増えるわけです。しかも自分は「沈黙」がまったく苦になってないため、相手にだけ苦痛をしいているのかもしれないという、やはり後ろめたさが。

そりゃサークルとかコミュニティーとかキャンパスライフとかができないわけです。 だいたいそもそもやりたかったのではなく「やらねばならない」という強迫観念を抱いていただけなのですから。

方向感覚に自信のない人はGoogleマップのライブビューを必ず使ったほうがいい

特に第1歩目で使うものです。

今の時代、スマホを持っていれば、致命的な形で道には迷わないはず、です。

ただ問題なのは、第一歩目なのです。不思議なくらいこれが、180度逆に向かっていることが多い。

コンパス機能を使ってすら、それが起こるのが不思議。

しかしライブビューで、目の前の風景に矢印が現れれば、さすがにその反対には行かない。

私はこのライブビューを使ってから、ついに、最初の方向から迷うということがなくなりました。これすごい。

さすがにいまでは、いったん方向性をあわせさえすれば、すなわち目的地が自分の地図の「上部」に位置するようにさえすれば、なんとかたどり着けるのです。

問題はその、自分の地図の「上部」に位置してないときなのです。

ブログとポッドキャスト

昨日書きましたが、podcastを再開しました。

radiopublic.com

数日やっていてちょっと考えたのですが、ブログとポッドキャストはよく似ています。よく似ていますが、ほとんどリアルタイムそのままで配信してしまっているポッドキャストは、ブログと違って修正がききません。

一発勝負なので緊張感が高いです。

また、気がつくと同じところに話が戻ってきたとしても、そのまま進めるほかありません。文章なら、大幅に切り貼りができるのですが。

もちろんポッドキャストはしゃべればいいので、アウトプットそのものは書くよりラクです。

ただ、たとえば声のトーンだった理がやはりそのままアウトプットなので、文章よりもコントロールに難があります。ポッドキャストは、まるで手書きの文字のようなものです。元気がないときには、声にそのまま現れてしまいます。

いまのポッドキャストはテーマがグッドバイブスなので、先の心配をせずにしゃべれるようにかなり気をつけているところです。

やってもやらなくてもいいし、何も禁止も強要もされることはない

倉園佳三さんの「グッドバイブス」のことです。

「グッドバイブス」には宗教的なところはあります。でも、宗教とは違う。

なぜなら

  • やらなければいけないこと
  • 禁止事項

などは、なにもないからです。

私もこのブログや、ポッドキャストなどで「グッドバイブス」について発信する機会が増えてきました。

 

open.spotify.com

当然ですが、「望ましい方向性」のようなものを示唆します。

たとえば「手放す」などの表現がそうなのですが、「手放したほうがいい」ような方向性があるのは否めません。でも「手放さなくてはいけない」わけではないのです。

結果として自分の心の平安を保つにはどうしたらいいのか? それを望むのなら「復讐心は手放したほうがいい」というような提案なのです。

これを無視してはいけない、ということではありません。ただ「復讐心をしっかりと満たしつつ、心の平安を得るのは難しいと、グッドバイブス的には考えられる」ということです。

いま一ヶ月の無料体験キャンペーン中です。いわゆるサブスクリプションですが、思わず一ヶ月以上経過してしまっても、本当なら退会されたかったということでしたら、返金処理にも極力対応いたします。(手数料はお戻しできませんが)。

「幽霊会員」さんの参加料で運営をまかなうという趣旨とはまったくそぐわないので、「とりあえず説明だけ聞いてもよくわからない」という方にお気軽にお試しいただけると幸いです。

 

 

 

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タスクシュートとグッドバイブスの交差点

直感的にそう見えるほど、タスクシュートとグッドバイブスに矛盾点はありません。

完全に重なるなどともちろん言いません。

しかし、非常に大事な交差点が少なくとも1つはあるのです。

タスクシュートを真面目にやっていて、それなりに「やる意義」を感じている人には、共通する悩みのようなものがあると思います。

それは、「自分の時間がない!」「いつかやりたいことがまったく実行されない!」ということです。

言い方を変えると、「あまりに膨大な時間が、自分の肉体の要求と、他人(この場合には家族を含む)からの要求に消えていく!」となるでしょう。

私のタスクシュートの記録によれば、

  1. 睡眠+食事+入浴などで13時間
  2. いわゆる「仕事」で7時間
  3. 家事や休憩を合わせると4時間

めちゃくちゃざっくり言いますとこうなって、これで24時間です。

「スキマ時間」に読書など「好きなことを」やるのです。それが精一杯です。

お金を稼いで、娘の相手もして、これで文句はないと私は思うのですが、「それではダメだ!」という意見もあって、それが私を困惑させていただのです。

倉園佳三さんの「グッドバイブス」は、ここに手当てをしてくれたのです。

どういう事かというと、2の「いわゆる仕事」と3の「家事など」を全力でやろう!というわけです。そうすれば、それらの活動から「いつかやりたいことに夢中になっている」のと同じフィードバックが得られるばかりではなく、全ての結果が好転するであろう!と。

なにやら虫のいい話のようにも思えますが、「仕事に全力を尽くす」のは悪い結果にならなそうでもあるし、家事や育児にそうするのも同様です。

また、たとえ全力を尽くしても尽くさなくても、「サムデイリスト」がいつもサムデイのままなのは私にとっては同じことですし、たとえ未来の計画をどう立てても、そのよう私が持って行けてないのは事実でした。

仕事や家事に全力を尽くしても、倉園さんが言うほど「素晴らしい人生」に導かれなかったとしても、失うものはないのです。せいぜい「全力を尽くして疲れたわりには変わらない」という程度です。そうしたら寝ればいい。「グッドバイブス」を試してみるのも悪くはない。

もうすこしいうと「全力を尽くさないことの方が素晴らしい」というロジックは当時の私の中ですら成立しなかったので、「グッドバイブスをやってみた」わけです。

素晴らしい人生に導かれたか?の件については、私はいまでは疑わなくなりつつありますが、うまく伝えるのは難しいので、保留しておきましょう。

ただいまでは、「サムデイリスト」に何の魅力も感じなくなりました。(と言うよりも捨てました。あれはもうサムデイでもなんでもない)。つまり、まさに「タスクシュート上のリスト」にこれまででいちばん「最高のリストはこれだ」ということに納得できています。

感覚としては、今までのサムデイリストが、タスクシュート上に来たのです。リストの中身は変わってないのですが。私にはこれで十分であり、これを御希望の方に実現されたいと考えているところです。

同僚や上司が「苦手なタイプ」であるなら

「グッドバイブス」の中で一番最初に決して忘れなくなった「教訓」があります。

何かおかしな事をしている人があるとすれば、その人は心に恐怖心を抱いている

これです。

 

サルは、ヘビを非常に恐れます。たぶん天敵だからでしょう。

サルは、ヘビを見つけるのが非常に速い。サルに聞かないとわからないけれど、「ヘビだ!」と「意識する」前から、もう警戒して飛び退くほどなのです。(問題はサルに意識・無意識の自覚があるかを確認できないことですが)。

この「飛び退く」は非常に奇妙です。傍目で見たことがあるのですが、奇異な行動なのです。おそらくサルに同様の恐怖心を与え続けたら、異常行動を取りまくるでしょう。

その「異常行動」こそ、私たちが恐怖心を与えられ続けたときに取ってしまう行動なのです。

誰もそんな、異常行動など取りたくはないのです。なぜなら全然気持ちよくなどないからです。

おそらく「苦手なタイプ」が自分に仕掛けてくる(と思われる)異常行動は、何かしらの「与えられ続けている恐怖心」のせいです。

断言してもいいですが、その「恐怖心」をもし取り去ることができたら、相手の「不快な」異常行動はピタリとやむでしょう。

傷つきやすい「身体」を自分の本体とみなし、四六時中「恐れや不安」を抱きながら暮らす私たちは、どのような目的で「身体」を使っているのでしょうか。

おそらくその多くは、

「自分自身や他者を攻撃すること」

であるはずです。

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私は最近よく「グッドバイブス」で言うところの「役割」というテーマについて考えるのですが、もしかすると特に現代では、目の前に現れた誰かの恐怖心を取り除くことこそ「役割」というのかもしれません。

「恐怖による異常行動」に興味があったら次のコミックを読んでみてください。

Kindleアンリミテッド対象です。

 

我が名はネロ 1 (文春デジタル漫画館)

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我が名はネロ 2 (文春デジタル漫画館)

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現実の嫌悪感を作り出しているのが自分なら、それを止めることもできる

氷に触ると冷たいと感じる.

この感じは私たちの中に生じる近位項である.

しかし私たちの認識のプロセスはそれで終わるわけではない.そこから先が大事なのだ.

その後に,「冷たい」という感覚をもたらしたモノ,つまり氷が冷たいものであるという認識が生じる.

この氷が遠位項である.

ここでは自分の感覚である近位項が,外の世界にある遠位項に投射されているのである.

 

 

倉園佳三さんが「グッドバイブス」でよく指摘している

私たちは見ようとする現実を作り出している

というののプロセスは、おおむねこんなふうに説明されています。

「氷」が冷たいというのは「掛け値のない事実」ではありません。

そうは感じない動物(シロクマとか?)だっていそうですし、そもそも氷自体が「俺って冷たい」と感じるはずがありません。

「冷たさ」は私たち中の「予測のようなもの」のところにあります。

現に、VRなどで「氷」を目の前に示されたら、きっと「冷たそう」と感じることを止めるのは無理でしょう。

こんなふうに私たちは「世界」を見ています。

ヘビが気持ち悪い。クモが恐ろしい。それはしかし、度を超さなければまあいいのです。

隣の同僚が、苦痛だ。

こういうのが私たちの「苦悩」を引き起こしてしまうわけです。

これはきっと鈴木先生の言う「プロジェクション」つまり自分の側から「投射」している結果のことなのです。

自分はそんな投射なんて考えてもいないし,やっている意識もないと多くの人が思うだろう.

そう,だから「暗黙知の次元」なのだ.

そうはいっても「同僚」を最初から色眼鏡で見ていたわけではない。あいつは「あんなこともしてきたし、こんなことも言っていたしウンタラカンタラカンタラカンタラ」というのは「事実」です。

「グッドバイブス」をはじめとして、あえて言えばあらゆる「運動」はここのところから開始します。

「私たち側からやっていることを、私たち側で止めるのなら、できそうではないか? 何かできないか? できないなら、なぜできないか?」

錯覚でわかっていることをブランド・マネージメントに活かせないだろうかとか,

神に対する愛のようにある製品に愛を感じさせられないだろうかとか,

幽霊を怖がる子供に錯覚の例を通して安心させるとか,

バーチャル・リアリティを用いたソフトを幻覚の研究から作れないだろうかとか,

いろいろな現実的な展開が考えられる

 

計れるものをまず計る。すると新しい発見がある

タスクシュートは、要するにタスクにかかる時間を計ります。

他にも様々あるのですが、とりあえずまずはこれをやります。くまなくやります。爪切りにかかる時間も、原稿書きにかかる時間も、分け隔てなく(分け隔てしないことが大事です)計るのです。

もしも私がセミナーでこの話しかしなければ

「それはわかった!で、他には?」

ということになるでしょう。企業研修などでやったら、間違いなくそういう冷ややかな空気が流れるでしょう。

たとえば「時間を計るのです」ということを言えば「でも仕事の質は?」という反論というか、「さらなるお求め」が発生します。

でも質は計れません。少なくとも時間を計る方がずっと容易です。

そして時間を計ることで、計らない人にはわからない感覚が得られます。たとえばセミナー中、誰がどう思っていても、このペースで残りのスライド数なら「何分オーバーするか」がわかったりします。

そしてイベント中ので何時何分ごろに「巻かなければならない」(質を落とす必要がある)かもわかるようになります。

いろんな事をいっせいに求めると、何にもしないことになるというのはよくあることです。

「まつりのあと」には注意する

毎週、ラジオの生番組を担当していて大事だと思うようになったのは気持ちのクールダウンだ。

番組がいかに満足のいく内容であろうとも、リスナーからのいい反響がどれほどあろうとも、集中力が切れたときには一種の不快感を味わうのである。

(中略)

このとき、してはいけないことがある。それは評価だ。

気持ちのバランスが崩れているのだから、自分の内側に対しても外側に対してもまっとうな評価はできない。・・・人間について考えれば、際限なく自他を責めてしまうことになるからだ。

 

絲的ココロエ―――「気の持ちよう」では治せない

絲的ココロエ―――「気の持ちよう」では治せない

 

 

 

これは私には、とても大事な指摘だという気がします。

私はこのようにはなりませんが、それでも多大なエネルギーを要して一仕事を終えた直後は、一切の評価を停止するようにいつしかしていました。

たとえば企業研修の直後などです。

あれはまさに「まつりのあと」という表現がふさわしく、感覚が落ち着きません。あらゆる意味で神経の高ぶりをマックスに近づけてしまった後なので、反動が来るのでしょう。

私は気がついたことをとりあえず書き留める癖はあるのでそうしますが、批評はしません。「自分の内側に対しても外側に対してもまっとうな評価はできない」ときに評価をするということ自体が不適切なのです。

「時が来てもやる気がしない」のは当たり前

タスクシュートの伝播などを仕事としていると、「佐々木は当然、そのタスクをやるときが来ればやる気になるんだろう」などとおっしゃる人がいて、とても驚きます。

そんなことはありません。

この世のものは、すべてグラデーションです。行動も同じです。食事から食休み。その間に絶対明瞭な区切り線などありません。あったらとてもおかしいでしょう。

「たすくま」の画面をご覧いただくとわかるとおり、実は「線」はとても薄くなっています。本当に薄い。でも線が引いてはあります。時空間のどこにもそんな線などあり得ない。これは「方便」なのです。

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線がないところに線を引く。それは強引なやり方です。その線のところで急に行動を切り替えようとしても心がついてこないことは多い。これも当然です。

だから行動パターンを把握するのです。それもごく自然な自分の行動パターンを。そのためには正直なログを残す必要があるのです。

ごく自然な行動パターンにとって、「逆算」は邪魔なものです。計画も不要です。それがない中で取る自然な行動パターンの中で、できるだけのことを積み上げていけばいいわけです。

PC代わりにiPadを使いこなすWebマンガ家の「iPad活用術」レポ

昨日開催でした。

リアルにご参加いただいた方、遠隔からご参加いただいた方も、大変ありがとうございました!

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まず会場でパッと驚いたことが、私以外参加者全員12.9インチiPadを持って参加。

Appleストアでもないと、なかなかこんなことにはなりません。

12.9インチは重く、そして大きい。

しかしスプリットビューは、これは果てしなく便利そうでした。

つくづく私が考え込んでしまったのは「キーボード重視」はいまやネックになりかけているということ。

文章の価値というものは根源的にあると思います。しかし仕事としてみたとき、1文字あたりの値段は下落の一途をたどる一方、キーボードの重量は、軽量化の一途をたどってはいない。

イラストを描く上で、iPadは間違いなく最高の仕事ツールになっている。もっと軽く仕事ができそうなキーボード派は、何を選択したらいいのでしょうか。

音声入力か。

 

何かに依存しているということは

――夜の世界を「華やかだけど、ゴミみたい」、昼の世界を「クソつまらない世界」と表現しています。常に昼と夜の世界を行ったり来たりする生活を続けていますよね。なぜ、両方が必要なんだと思います?

鈴木:それはやっぱり、健康体でいると、自分に傷をつけたりすることに対して、憧れができるというか、昼間の生活では、かなりしっかりした努力をして、ジワジワくる幸せを幸福と感じなくちゃいけない。でも、本を読むとか、映画を見るとか、小さな楽しみで退屈さを埋めようとしたところで、結局のところ、日々の積み重ねって地味なもので、楽しくない

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 最後の太字のところが、かなり印象的でした。

何事も、「否定形では定義にならない」ものです。

独立とは、依存しないこと。依存とは、独立していないこと。

これでは定義になっていません。

『絲的ココロエ』に「他人に依存しないように過剰に気をつける独立心の強さは、何かへの依存症を悪化させる」という趣旨の話があって、強く共感しました。

依存というのは、多分にプロセスです。何かしらの嗜好品とか快感にと言うよりも、その行為全体のプロセスに依存します。一日中たばこのことばかりを考えて過ごすというのは、たとえたばこを吸う本数が日に一本であったとしても、何か依存的な心理状態を思わせます。

そして「たばこを生活の中心にそえる」事は、同時に「たばこを吸わない人生のつまらなさ」を際立たせる結果になります。

昼の世界を「クソつまらない世界」と感じるという感覚そのものが、すでに何かを予感させます。誰もがそう感じている。当然ではないか、と。

たばこについても同じ事を感じる人はいて、たばこのない世界を「クソつまらない世界」と感じるでしょう。でもそれは、たばこを吸ったことのない人には決して理解できない世界観です。