佐々木正悟のライフハック心理学

ビジネス書作家・佐々木正悟の公式ブログです。なるべくならお役立ち情報を出していきたいと思っています。

タスクシュートはユーザーのタスク実行力を強化する

歯ブラシやクシがいつも置いてあるところに置いてないと困るし、あるはずのトイレットペーパーがなくなっていたら困るのだ。

ましてや自分が飲むはずになっていた牛乳がなくなっている…・・・なんていうことだ、オレの朝はめちゃめちゃじゃないか。

ふだんから威張りくさっている父親なら、この歯ブラシやクシがない時点でカンカンになって怒り出すだろう。

トイレで怒り、冷蔵庫を開けて怒り出す。家族に当たり散らしながら、駅へ着くと電車が出たばかりであることを知る。

そして、それでまた腹を立てることになる。

こういう風景をみてもわかるように、私たちの暮らしが、いかに決まり切った配列や順序に支えられてあるか、そしてその配列が違うといかにパニックになってしまうか。

 

自閉症―これまでの見解に異議あり! (ちくま新書)

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 タスクシュートユーザーは、こういうことには強い。

ということは、タスクシュートが強化しているのは、ユーザーの意識していない行動の記憶、ということになる。

私たちは、普段はこういう自分の行動を、ほぼ意識しない。

GTDだったら、これよりもっと「気になること」などを優先したほうがいいと言うだろう。

それにも一理ありそうだ。

ただ、気になっていないことのなかに、もっと気にすべきことが隠れていることが少なくない。

少し変えるだけで、もっと本人が快適になるだけでなく、家族と仲良く暮らせるかもしれない。

そうしたら、もっと自分の仕事が素早く終わるかもしれないのだ。

なぜタスク管理にアウトライナーが欲しくなるのか?

タスク管理とは、記憶術の一種だからである。

たぶんこれが答えになるのだと思います。

記憶術と言えば

良い国作ろう鎌倉幕府

あたりが有名ですが、記憶術を使うのはなんと言っても「記憶力」を「使わずになんとかしたい」からでしょう。

記憶力と言えば「受験」です。

人が最初に記憶術を多用するのもきっと「受験(または定期試験)」の時でしょう。

「メモ」とは記憶術のために用いられるもっとも汎用性の高いツールです。

考えてみると「計算用紙」とは「記憶術のメモ」です。

語呂合わせも記憶術ですが、「年表」を書いたりする記憶術もあります。

これら「記憶術のためのメモ」をトコトン集めて本にでもまとめたら「記憶術フェチ」や「メモフェチ」がきっと手に取ってしまいそうです。ここにライフハックの源流があります。

タスク管理というのは、

  • やることを記憶力でまかないきれなくなった人のための記憶術

なのです。

計画ノートに「計算用紙」を含めることができるとは思えません。計算用紙という「記憶術のためのメモ」は、受験計画をまとめたノートとはまったく別の用途のメモなのです。

しかし、強引にひとつにまとめるとすれば、

  • 受験計画のノート

には

  • 模擬試験を保管したもの

が含まれているかもしれず、そこに「計算用紙」が入っている可能性はじゅうぶんに、あります。

この受験計画のノートがタスク管理であるとすれば、そこにたとえば「ブログのネタ」(計算問題とそのための余白)を入れるか入れないか、という問題が必ず発生するのです。

「入れない」というのが一般的でしょう。

計画表と受験参考書は分けておくのです。

しかし、「入れたい」と思うことも多いでしょう。

計画表の中に受験勉強用の資料もあれば、計画を実行する中で勉強も済ませられるので、一元的滑走路を進んでいるような安心感があります。

ただ、これを紙のノートでやるとなると、何もかもが一カ所に集まった巨大なノートやバインダーを持ち歩くことになるので、まったく現実的ではありません。

デジタルであれば、タスク管理にアウトライナーを「綴じ込む」ことは容易です。少なくとも物理的なボリュームに苦しめられるという問題はありません。

問題になっているのは「記憶術」です。思い出したいタイミングで、思い出すべき内容が記録されていたり、容易に呼び出せるツールです。

ブログを書くべき時間になったら、ブログを書くために必要にして十分な情報が即座に現れて欲しい。

鎌倉幕府成立年を問われたら、たちまち必要にして十分な情報が脳内に現れて欲しいのと、これは同じです。

綴じ込んだり、展開したり、リンクを張ったりするのはすべて、

  • そのときどきに最適な情報

というものが、ひんぱんに入れ替わるからなのです。

 

タスクシュートという記憶術

カレンダー覚えが「一般的な記憶力の範囲」をはるかに超えるという理解も苦笑である。

なぜなら「カレンダー」と呼ばれる物自体が、人類の生み出した偉大な「記憶術」の一形態であったわけで、そういう「カレンダー」という存在そのものすら著者は一度たりとも考察していないのである。

 

自閉症―これまでの見解に異議あり! (ちくま新書)

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著者のこの指摘は大変スリリングで、またとても辛辣でもあるのだが、これは「自閉症児の中には日付と曜日など、特定の規則性を有した情報に対する、抜群の記憶力を有する子がいる」といった「通説」を批判しているものです。

著者の村瀬さんはこう言っているのです。

(自閉症児には)「一般的な記憶力の範囲」をはるかに超える(子もいる)などと平気で言うけれど、ではその一般的な人々が、一般的な記憶力の中で、たとえば去年の何月何日に沖縄へいったが、その日は何曜日だった、と正確に宛てることができたりする「すごい記憶想記」のケースについて、きちんとロジカルかつ科学的に説明できるのか?

村瀬学さんは言い切ります。「「自閉症の謎」などない」。カレンダーについて言えばカレンダー自体がすごいのであって、カレンダーを用いた「記憶術」(これを「記憶力」と分けるべきだとも村瀬さんは指摘します)にそれほど驚くべき点などないのだ。

私はこれにまったく同意します。私の仕事分野で言えば、タスク管理がこれとよく似ています。そもそもタスク管理とカレンダーは似ています。

タスク管理術とは、「記憶術」の一種です。「記憶力」に若干の弱さがある、もしくは「驚異の記憶力」を発揮する気がサラサラない人々によって発案されたのがタスク管理、と言えなくもありません。

これまでのところめぼしい発案は、私の見たところたった2種類しかありません。GTDとタスクシュートです。こう考えると私がタスクシュートに「こだわる」のは、他にほとんど選択の余地がないせいでもあります。

「記憶力」が頼りにならないから「記憶術」が考案されるのです。タスクシュートはそういう意味ではまさに「驚異の記憶術」です。

何しろやったことは片っ端から何でもかんでも「記録する」ので、「記憶力」の個人差など吹っ飛ばしてしまいます。

よくよく考えてみると、もしもカレンダーがなかったら、私たちは今日が何日で、夏がいつ来るか、三日後に何をするかといったことについて、まったく管理できなくなるはずです。まさに「驚異の記憶力」を誰かが発揮してくれるのに祈るほかない。

タスクシュートは私自身のカレンダーです。これを見れば、月曜日と火曜日がどう違うのか、一目でわかります。

もちろん、「記憶力」に頼ったとしても、月曜日と火曜日の違いがまったくわからなくなるわけではないですが、タスクシュートがあるのとないのとでは、カレンダーがあるのとないのほどの違いがあります。

カレンダーがなければ、今日が何曜日かわかる人は、誰もいなくなるでしょう。

 

絶対にやることであれば、タスクリストに追加しておいた方が、タスクを片付けやすくなる

タイトルが長くなりましたが、そのまんまです。

たとえば私が「トイレ」とか「お風呂」をタスクリストに入れておくのは、それは必ず終わらせることができるという意味もあるのです。

行くまいとしても、行ってしまうのがトイレだから。

「やるかやらないかわからないが、ぜひともやるべき!」というタスクだけのリストだと、(おうおうにしてそういうリストが多いものですが)、最悪の場合ひとつもやることができず、気分が悪い。

たしかアンナ・フロイト(フロイトの娘さん)の言葉だったと思いますが

超自我は、自我に敵対するときにのみ明確な姿を取る

という言葉があります。

つまり心の内なる批判者であり、しかも「理想」を示すよりも「批判するのみ」というやっかいでいやらしい存在なのです。

あれです。「そんなんじゃだめじゃ!」とは言うけれど、「じゃあどうしたらいいです?」と聞くと、「そんなん、自分で考えろ!」としか言ってくれない上司みたいなものです。

自分が何をしてはいけないかはよくわかっているが、何をしたらいいのかはちょっとわからない。

という人が、「理想のタスクリスト」を作ることほど悲しいことはありません。それより「やるに決まっていることリスト」を作る方が、きっと気分が良くなります。

簡単にオールチェック入れられるのです。なるほどこんなに物事を進めるのは簡単なのか、と思うところにひとつだけ、やりたかったことを潜ませておく。それくらいがちょうどいい。それがタスクシュート式です。

間違ってもできそうもないことや、ずっとやれなかったことだけのリストを作ったりしないことです。

それを目にしたときだけ「先送りはいけません!」と超自我らしき内なる声がするでしょう。「では何をしたらいい?」と尋ねても「そんなん、自分で考えろ!」と言われるのがオチです。

情報整理が得意な人の脳

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ウィスコンシンカード分類課題 という面白い研究があります。

トランプと似ていながら、やたらといろんな形が描かれたカラフルなカードを、被験者は分類させられます。

被験者は、どういう基準で分類すればいいのかわかりません

検査者は分類の規則を被験者に教えてくれないのです。

ただし、1回ごとのカード分類の正解・不正解は教えられます

たとえば最初は色で分類していると「正解」と言われます。

しばらくの間、分類規則は一定なのですが、とつぜん分類規則が変わるので、いつまでも「正しく」分類していると、あるタイミングから検査者が突然「不正解」というのです。

こうなったら、被験者はまた新しい分類規則(カードの中に書かれている形など)にしたがって分類し直さなければなりません。

 

という退屈と言えば退屈な課題から、興味深いことがわかります。この課題において、

新しい分類基準に変わったところから、課題を非常に困難に感じる被験者

が出現するのです。前頭前野に損傷を受けている被験者の場合、どうしても最初の分類基準に引きずられてしまい、新しい分類基準に従って分類していくのが困難なようなのです。

ようするに、新しい条件下で失敗になったり成功になったりする基準を、教えてもらえるわけではないので、自分で試行錯誤した結果、何が失敗で、何が正解なのかを覚えておいて、新しい分類基準を自ら見つけ出し、それも記憶する必要があります。

脳の一部を損傷している被験者にとって、それが難しいのです。

この課題はもちろん、前頭前野の損傷の意味をあぶり出すための課題ですが、私がこれを読んだときすぐひらめいたのが

Evernoteのノート整理を得意とする人と不得意とする人を分けているような課題だ

と感じたのです。

Evernoteのノートを分類するのも、何が正解で不正解かは、自分で決めるしかありません。教えてもらうようなものではないでしょう。

その分類基準はけっきょく、どう分類したらうまくいったか、あるいは失敗だったかを、記憶しておく必要があるはずです。

その種の記憶が弱いと、

今後は「アイデア」と「ネタ」を分けるようにする!

という自分の新しい分類基準を設けても、翌日にはそのことを忘れるので、うまく分類できなくなると考えられます。

ライフログの活用法。ニュースログと結びつける

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毎日ニュース記事をひとつだけ、Evernoteに残しておいています。

こうすることで、「そう言えばこんなことがあったな。その日の私は何をしていた?」と思うことがあるからです。

たとえば、先月末ごろに「首里城全焼」というニュースが入りました。まだ記憶に新しいですが、すでに話題は「桜を見る会」や「ヤフーLINE」へと移行しつつある気がします。

しかし一日の中の最大のニュースは、記憶に一定の痕跡を残します。

その痕跡を逆にたどり、「そう言えば自分はその日、ブログでこういう記事を書いた」とか「そう言えばこの日、グッドバイブスのブログはこれだった」という記事を読むと、だんだんその日にしたことを思い出せてくるから不思議なものです。

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そのうえで、食べたもの、訪れた場所(これはいちいちEvernoteに残してなくてもたぶんGoogleマップでものぞけばGoogleがきちんと保存してくれています)、そしてその日の服装でも写真に残って着れば完璧です。

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 いつ頃、どんなものを食べて、何を着込めば、快適に過ごせて仕事に集中できるかも、なんとなく見えてきます。

たすくま・タスクシュートでやれば、もっと徹底的にやることもできますが、ごく簡単に記事を記録したり、服装と食事の写真を撮っておくだけでも、それなりにできます。

わりと大事なのは、その日その日、記事をいちいち目を通したり、自分でクリップでいいから、手動でやることかもしれません。

特に記事などは、毎日読むからその日のことを思い出せる、という効用を得ることができます。

ライフログを緻密に取っている多くの人に朗報です

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ライフログは取ってないにしろ、お子さんの誕生日の写真や動画は、わんさか取っているという人が多いと思います。

私はひとつ、数年前に大きな発見をしました。

4歳になる娘の誕生日に、2歳の時の誕生日の様子を動画で見せたところ、感動して泣いたのです。娘が。

個人的に、これはけっこう驚きでした。わずか4歳という年齢で、自分が祝われているというような、そういうことで感動して泣く、ということがあるのかと。

私は子供のことなんて、何もわかってないとつくづく思いました。自分はそういうことでは泣きません。しかし、そういうこともあるのかということには、たしかに感激しました。

そんなこともあり、ライフログをせっせと残しております。ほとんど娘中心です。

 

あなたの知らないApple Watch: これまで語られなかった小さな使い方

あなたの知らないApple Watch: これまで語られなかった小さな使い方

 

 

時間節約術のひとつ。キャンセルしない

どうしても、という事情があるとは思うのですが、キャンセルというのは、けっこう時間を使うし精神的な消耗もあります。

セミナー開催しているとどうしてもよくわかってしまうのですが、キャンセルしない人と、する人の二種類がいるというのは、事実です。

この

キャンセルする人

にたいして、どのようにすればキャンセルしないようになれるかということを伝えるのは、私の仕事のひとつだと認識しています。

キャンセルは、キャンセルポリシーその他のこともありますが、明らかに心理的な負担になるし、時間を使う上でも、「調整」という困難を乗り越えなければできません。

キャンセルさえしなければ、お金の心配も、相手への心証への忖度も、何もかもが不要になります。

この「不要」ということが大事です。不要なことを実行せずに済むというのは、時間という「使わずにおくことができない」ものを「節約」するためには欠かせないのです。

時間はなくならないのだから、キャンセルなんて「不要」なのです。キャンセルしてまでやることを切り替えても、おそらく得られるものはほとんど変わらず、その代わりにいくらかのものを必ず失うことになります。

それでもどうしてもという状況はあるでしょう。この間の台風はいい例です。

その見極めは、キャンセルポリシーその他において、仮に100%取るぞ!といっている相手でも、もしかすると躊躇するかもしれないと思えるかどうかが、境目だろうと思います。

タスク管理は未達事項を気にしなければうまくいく

未達とはつまり「やってないこと」です。

タスク管理で何より大切なのは、

  • いま何をやっているか

ですが、次に大切なのは

  • 何をやったか

です。

いちばんどうでもいいのが

  • これからやること

です。

未達が多いとか、締め切りに遅れそうだとかいうのは、タスク管理をどうこうしたからといって、本当はどうにもならないことなのです。

一番大事なことを、ただいまから、集中してやればいいのです。

未達を全部片付けたからと言って幸せになれるとか、大学に受かるとか、人が褒めてくれるなどという決まりはありません。

それに未達はいつまでもあるはずです。未達のことがなくなるときは、死ぬときです。

未達がたくさんあるということは、生きているということなのです。

未達は、いつまでもあるのです。なくなることは、ありません。

未達を気にしているのは、まったく不幸なことです。未達を気にするのを今すぐただちに止め、やるべきことをやればいいわけです。

有料のウェブマガジンCHANGESをリニューアル中です

2020年を迎える前に、新執筆陣を迎えたり、新連載をスタートすることによって、CHANGESリニューアル中です。

言いたいことやまやまのやままさんにはすでに、新連載を着々と更新中です。

全連載の第1話はすべて無料で読めますので、ぜひどうぞ!

changes.jp

 

そして、今月、五藤晴菜さんの新連載がスタートしました。

テーマはiPadOS。私がイラストをもとに自分のiPadを使っていろいろ学習中。そのプロセスを記事にしていきます。

 

changes.jp

 

さらに、works4Life ののみこさんを新連載の執筆陣に加わっていただきました! テーマはもちろんGTDです。

共催のGTDセミナーも12月7日に実施します。よろしければ年内最後の「書き出しタイム」にご参加ください!

www.works4life.jp

 

さらにさらに、最初期の執筆陣の岡野純さんが新連載をスタートします!

 私自身も新連載を計画中です!

これから新しくなるCHANGESこれからもどうぞよろしくです!

野の医者は笑う:心の治療とは何か?

 

野の医者は笑う: 心の治療とは何か?

野の医者は笑う: 心の治療とは何か?

 

ブログタイトルを書籍タイトルと一緒にするというのは、個人的には避けたかったのだが、迷いに迷ってこうしてしまった。

もうこれ以上迷うのは時間と労力の無駄だと思えてきたのだ。

本書はとてつもなく面白い、とは昨日書いたことだ。筆者は大変な能力の人だと思う。

本書の魅力は多岐にわたりすぎるくらい多岐にわたるし、しかも私は「臨床心理学」というものがオタク的に好きなため、でも臨床心理士になれそうもないため、こういう本はめっぽう楽しめる。

ということを抜きにしても本書は間違いなく面白い本である。

その面白さを支えている大事な要素としてミステリー仕立てのふうを装っている、小説風のそれでもルポなのである。

だけではなく、きちんとした学問的な分析が加わっている。しかも一定以上の説得力がある。

つまり必要なものは全部入っていて、ミステリーなのだ。

ミステリーというのは不思議なもので、「謎」がオカルトであってはならないから、小説の中身は写実的であるほうがいいようだが、面白い作品はたいていそうではない。

たとえば森博嗣の作中人物は名前からして奇妙だし、ありそうもない雰囲気がある。何か特有の薄気味悪さに嘘くささがつきまとっている。

現実なのに、それと同じような嘘くささとちょっと気味の悪い世界が、「野の医者」の世界にはみえる。つまりスピリチュアルとヒーリングと占いと、それからポップ心理学の世界。

臨床心理士であるのに(つまりこの作中では「探偵」である)、作者は「野の医者」の世界に分け入って、最初は冒険のつもりで、だんだんミイラ取りがミイラになっていくのだ。

ファンタジーの世界にとりつかれて戻ってこられなくなるような魅惑と気味の悪い世界。舞台は沖縄だが、ほとんど現実感がない。ヒーラーばかりが登場する。

しかし作者は実際のところ、断じて正気を失わない。失っているように見せるけれど、実際には失っていない。そして、少しずつヒーラーの大物、元締め、黒幕へと迫っていく。最後の最後の大物は「X氏」などと書かれていた。

後半は疾風。これもミステリーの特徴だ。どんでん返しが続く。大物に会ってもそれほど「スピリチュアルのミラクル」は現れることなく肩すかしを食わされるが、一方で河合隼雄だの箱庭療法だのが登場するにいたり、ますます「ヒーリング」と「臨床心理」を区別する線があやふやになってくる。

そうこうするうちに、読者は作者に感情移入してしまうので、だんだん読者としては「ミラクル」に期待してしまうのだ。

しかしミラクルが起こるということは、スピリチュアルの勝利である!

ところがその結果、作者は臨床心理士として大学に就職がかなうという話であって、それは埼玉県の新座にある大学と来ている。じつに大きな、皮肉な、そして退屈なミラクルである。

こうやって沖縄ヒーラーという「虚構」と「現実」を行きつ戻りつしながら、さらに読み進めるほど、謎に肉薄していく感じがせまってくる。「ヒーリング」とはなんなのだろう? インチキなのだろうか? 臨床心理は「正統派」であって、スピリチュアルは集金マシンなのだろうか?

お金を取る方はどう考えているのか? お金を払う人はだまされているのか?

物語も終盤になって、「経済力をつけること自体が癒やしになる」といったような話を、当然のように語る大物まで登場してくる。作者だってそうではないかと。だって、大学で臨床心理の教鞭をとるという経済的基盤を持つと、ストレスから解放されたでしょう?

だが少なくとも作者は「だまされない」。ミステリーで探偵が殺されてしまったり、現実に戻ってこられなくなってしまったら、物語は成り立たない。少なくとも読者はそこに期待する。

でもそれは、また戻ってしまうが、結局なんだかんだいっても臨床心理が正統であって、「前世療法」は・・・、というものなのだろうか。

この本を最後まで読むころには、もうその結論だけ持ち帰って「現実に戻る」ことは、ふつうの読者に無理になっている。ヒーラーに癒やされる人も、現実には存在する。

それはたまたまかもしれない。ヒーラーだって奇蹟は起こすものの「身内」との関係は必ずしも理想的なものになっていない。(身内は難しい、という言葉が出てくる)。所詮は経済、お金かもしれない。

しかし、作者の生活もまた、「経済に癒やされる」のだし、作者の家族関係も「理想そのもの」というわけではなさそうなことが、冒頭に描かれていた。スピリチュアルは「たまたま」で、臨床心理は「再現性がある」のか?

結局、心の治療とは何か?

この謎は、どう解き明かされるのだろう?

 

自分の欠陥を正しく指摘できるような「他人」は存在しない

 

野の医者は笑う: 心の治療とは何か?

野の医者は笑う: 心の治療とは何か?

 

とてもとても面白い。

こんなに面白いと嫉妬したくなってくるほど面白い本である。

伏線も巧みに張られていて、読者サービスも盛りだくさんである。こういう本を書きたいものである。

数度は紹介することにしたいので、今日は、私たち物書きや、物書きならずとも悩ませてくれる困った存在のことにとどめる。

「超自我」だ。スーパーエゴである。

 

このスランプの理由は実ははっきりしている。私はビビり始めているのだ。   

書き進めるにしたがって、朝起きた瞬間に恩師たちの苦虫を噛み潰したような顔が浮かぶようになった。  

「人間ああなったらおしまいやな」  
どこからかそういう声が聞こえてくるのである。これが怖ろしい。

精神分析の世界では、そういう自分を見張る自分のことを超自我と呼ぶ。

 

 

 この引用部分だけでも、十二分に面白い

うまく茶化されている。

ばかばかしい話なのだ。

私の頭の中にも、超自我はいる。以前はもっと強力な存在だったが、最近はこけおどしだということがばれつつある。

超自我というのは、至る所で、あらゆるやり方で、あらゆる分野の人を悩ませています。

たとえば私の「盟友」であるやままさんは、じつに超自我に悩まされる名人(?)です。

あんまり上手ではない文章

が、流通しているわけです。きっと超少額なギャラなんでしょう。とはいえこの文章に対価が発生しているのか!と驚かされることがあります。

なんとも、もやもやします。彼らはなぜライターを名乗れるのだろう!?プンプン!

しかしこの気持ちは、またしても私の特技である「ガマンの押しつけ」が原因なのではないかという気がしてきました。

www.yamama48.com

もちろん彼女の超自我が、怒っているわけです。

超自我は常にえばっています。そして万能です。何を言ってもゆるされます。常に上から目線です。そして当人のことを何もかも知っていて、もっとも弱いところを、徹底的に攻撃してきます。

「そんなこともわからへんのか!」  

すいません、超自我さま。  

「ドイツ語版ユング全集を写経して、出直してきい!」  

すいません、ドイツ語は親友に答えを見せてもらってようやく単位が取れただけなんで、ほとんど何もわからないんです。  

「バカモン!」

 

野の医者は笑う: 心の治療とは何か?

野の医者は笑う: 心の治療とは何か?

 

波平・・・。

なにしろ、自分の中にいて、自分の見張り番だけが仕事なのですから、気楽なものなのです。

私は超自我と付き合う上で、付き合いたくなんかないのですが付き合わざるを得ないので付き合う上で、こいつをとにかくちゃんと認識し、絶対に外部に投影しないように、それだけは気をつけるべきだと思っています。

自分の親のことを超自我だと思ったり、仕事の関係者を超自我だと混同すると、ろくなことにならないのです。

「やる気が出ない」のか「実行に困難を感じている」のか

このふたつは違います。

よく「やる気が出ない」という言葉で、両方の意味を兼ねさせてしまうことが多いようですが、私は「実行に困難がある」方が圧倒的で、しかも人を悩ませていると思います。

ひとつの「困難そうな仕事」があって、それを先送りするとき私たちは「やる気になれない」というのですが、「この困難そうな仕事に手を出すのが気持ち悪い」という方が真実に思えます。

やる気が問題であれば、たとえばお金がよければやる気が高くなるかというと、それはないと思うのです。

ただ、お金がたくさんもらえるなら、もらえたときのうれしさが大きかったり、「お金がもらえるから!」と自分を鼓舞する気になれるだけで、やるときのイヤさ加減に違いはないと思うわけです。

だから実行に困難を感じているということがいちばん問題です。

この問題はしかし、「実行に困難を感じている」のは自分の内面で、現実の仕事自体にはそこまで困難さがないと判断できるまで、問題であり続けるに過ぎません。

タスクカフェ第100回が終わりました

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タスクカフェ第100回が終わりました

100回目で大橋悦夫さんが

タスクとアイディアを分ける

話をされました。

この中で大橋さんはアイディアを卵、タスクをひよこという比喩を使って

卵が卵のままならば扱いやすいが、ひよこになったらケアが必要になるので、アイディアは、しかるべき時が来るまで「開封しない」

という話をしました。

何もかも一度には、できないのです。

タスクカフェも、最初から100を目指していたら、100回できなかったでしょう。

一つ一つ、やれることからやって、止めなければ100回できる、かもしれないのです。

 

どうしてもやる気がわかないときにチェックするべき考え方

「絶対に、重要な課題をきちんとこなし、周りの人に認めてもらわねば。そうでないと、私は嫌われ者になってしまう!」

→このようなとき、深刻な憂鬱、不安、パニックや自己嫌悪が生じる。

 

現実は厳しい でも幸せにはなれる

現実は厳しい でも幸せにはなれる

  • 作者: アルバート・エリス(Arbert Ellis),齊藤勇
  • 出版社/メーカー: 文響社
  • 発売日: 2018/08/31
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
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 エリス博士はこの本の中で、他にも2つの「思い込み」があって、人生を暗いものにするのはだいたいこの3つの思い込みで説明できる、といいきります。

上の文章は「いろんなケースに当てはまるべく抽象化」されている上に翻訳と来ているので、なんだかしっくりこないように思えるかもしれません。でもほとんどの「やる気が出ない」をこれほど完全に説明できている文章は少ないです。

重要な課題、つまり仕事や資格試験などを「きちんとこなす」のは素晴らしいことですが、しかし、それが仮にまったくうまくいかなかったとしても、十分に真摯に取り組んだのであれば、たぶん好きな人にも大事な人にも「失敗が原因で相手にされなくなる」ということはまずありません。

これは、他人のことだと簡単に理解できるのですが、自分のことだととても理解できないという人が少なくないものです。

「周りの人に認めてもらう」のも大事ですが、「周りの人」が誰なのかは、なぜか具体的ではありません。すごく漠然としているのです。

その結果としての「深刻な憂鬱、不安、パニック」というのは大変な問題です。少なからぬ場合はうつ病を意味して、よくても適応障害であり、食欲不振、不眠、そして希死念慮となりかねないのです。

冒頭の文章に欠かせないキーワードが「絶対に」です。一見気楽に振る舞っているようでも、「なんとかなる」とつぶやいているようでも、「仕事だけが人生じゃない」と口にしていても、どこかで深刻に思い悩んでいて、「何が何でもこれだけは!」という譲れない一線があって、しかもそれがうまくいきそうにないときに「パニック」が起きるのです。

便宜上、と思われるでしょうが、ふたつの価値観を並行して意識したい。

  1. 自分の価値は絶対不変で変わらない。課題をうまくこなしてもそれ以上上げようがなく、失敗しても落ちることはない
  2. 相対的な価値は変化する。かけっこで1位になれば、2位よりは評価される。ただしこの評価は常に相対的で、分野ごとにきっちりと限定されている

これはきれい事でもなければ理想主義でもありません。むしろリアリズムだと思うのですが、どうでしょう?

仕事には真剣に取り組むべきです。かけっこと同じです。しかし仕事が完全にうまくいこうといくまいと、その評価はかけっこと同じなのです。

本質的にやる気が出なくなりかけているときは、上の1と2の価値を取り違えています。その結果が冒頭のエリス博士の引用のようになるわけです。

これは、シンプルな話なのです。