佐々木正悟のメンタルハック

メンタルハックをテーマにおいたビジネス書作家・佐々木正悟のブログです。ビジネス書作家のワークスタイルを中心に書いていきます

「自分の存在」が否定されたとき、私たちはどうするのか?

「自分の存在を否定するようなことをいわれた」という話をたまに聞きます。そのつど「これはどういう意味なんだろう? 自分のあのいやな経験と似ているんだろうか? そう思ってイコールで結んでもいいものかどうか」とあれこれ考え、悩むことになります。

こういう時に私が真っ先に考えるのがフロイトです。存在の否定、トラウマ、去勢恐怖・・・といった概念が連想されます。連想という言葉が、そもそもフロイトを連想させます。

それにしても「去勢恐怖」などといったって、意味不明だと思われるのがオチでしょうが、先日いい漫画のエピソードを思い出して、「あれは去勢恐怖の話としてわかりやすいよなあ」と思い当たったのでご紹介します。

 

悪魔の花嫁 16

悪魔の花嫁 16

 

 

これに収録されている「糸車のある城」という、まあ童話のパロディですが、小話があります。

エルザというかわいい赤ちゃんが生まれるのですが、15歳になると顔にみにくい傷ができるとかいう呪いをかけられます。その呪いから守るために、パーティに呼ばれた魔女がタペストリーを護符として授けます。

「地から雷がわき、霊木が空から生えることがない限り、護符が破られることはない」といって両親を安心させるわけですが、そんなありえそうもないことが、当然かならず起こるから童話なわけです。『マクベス』ですね。

護符によって守られた女の子は「美しく」成長するものの、大病のために「視力」を失っています。
しかし、「悪魔の花嫁」ではありがちなやさしいフィアンセに愛されて「幸せな毎日」を送っています。

この「幸せな毎日」がフロイトの言うところの前エディプス期にあたります。母子「一体」の万能感に包まれた、過不足のない完全世界。護符が守るというのはこの世界なのです。

しかし女の子が16歳になるとき、たまたま護符であるタペストリーをひっくり返してしまい、その絵柄がちょうど「地から雷がわき、霊木が空から生える」様子を描き出してしまいます。私は子供の頃、「これは絵であって、実際に雷が地から湧いたことにならんだろう!」とイラッとした記憶が強く残っています。変な記憶が残っているものです。

そのとたん、女の子は視力を回復します。その女の子がみたものは、フィアンセが他の女の子といちゃついて、自分と婚約していたのは金目当てだったという「事実」。

母子「一体」の万能感というのは、このようにして崩壊します。視力を失っていたときのエルザにとって、フィアンセ、自分、そして世界というのは申し分なく、その境界すらあいまいなままです。そもそも、自分がいて、フィアンセがいて、世界の他の人々があって、というよりも、世界全体が自分自身のようなものなのです。

それはちょうど、母がおしっこしてと望めば、自分がトイレに行きたくなって、自分がお腹が空けば、母がおっぱいを飲ませてくれるという、どこからどこまでが自分で、どこから外が自分でないのか、分別しがたくする必要もない世界なのです。これを「近親相姦的に閉じた世界」と言ったりすると、気持ち悪くて理解しがたくても、エルザとフィアンセがそういう関係として描き出されていた場合、読者ずっと呑み込みやすくなるでしょう。

しかしエルザとフィアンセは切り離されてしまいました。去勢です。エルザは世界から去勢されてしまうわけです。それは誰がやったとか、どうして行われたといったことではなく、そのように自覚してしまった瞬間から、元に戻すことができなくなる出来事なのです。

その時にいきなりエルザは、「自分」対「世界」というそれまでは不要だった視点を得てしまうのです。しかも「世界」と一体だったはずのフィアンセは、「自分」をまったく欲しておらず、その欲望は他を向いていることもわかってしまったため、「世界」は「自分抜き」でも完全に成立することが一気に把握されます。「去勢」が起こった瞬間、それまで「万能だった世界」から切りはなされ、「世界」も「自分」も同時に一挙に失ってしまうわけです。

これは「トラウマ」となって当然です。フロイトによれば、これが起こった時に、それ以前、つまり母子一体で万能感にあふれていた前エディプス期の記憶は抑圧されるわけですが、そのきっかけとなったのはエルザが「視力」を得たこと、つまり子どもが本当の意味で「言葉」を得たことなのです。

エルザのフィアンセはあまりにひどいヤツのため、この物語は救いようもなくなっていますが、エルザは「前エディプス期」を失う代わりに「客観的視点」を獲得できています。それが視力だというのはいかにもですが、私たちの場合にはそれがしばしば「言葉」であるはずです。

そもそも本当に「母子一体」であった頃、つまり自分が母胎にあった頃というのは、母と私の間で「言葉を交わす必要」が原理的にありません。フロイトの言っていることというのは要するに、私たちは母体から出てもしばらくはそういった状態にあるのであって、言葉を交わしているように見えても、実際に言葉はたいして機能していないわけです。

その事態が変わるのは、自分が「母子一体」から切り離されるとき。たとえば母親がどこかへ行ってしまうとき。「一体」なら自分だけが取り残されるなんてことはないはずなのに、現実にはそういうことがいくらでもあり得ます。母は、フロイト的には父親のペニスを必要としているのかもしれませんし、それこそ父親の「お金」を必要としているのかもしれませんし、ありきたりですが「オシゴト」に行っているのかもしれません。

私の望みはママの望み。というのであれば、「私」があずかり知らないのに「オシゴト(その実体はまったく不明)」に行ったりするはずはないでしょう。ということはつまり、いま母親がいなくなったのは偶然たまたま何らかのアクシデントというのではなく、構造的に今後いくらでも起こりうる出来事だと考えざるを得なくなります。エルザのフィアンセが、その時たまたま他の女の子とアクシデンタルにいちゃいちゃしていたわけではなく、必然的にそうしていたのだとエルザが気づくのと同じように、子どもも気づく日が来るのです。

「オシゴト」の存在を思い知らされた子どもはエルザと同じように、「母子一体」の世界からいきなり切り離されてしまいます。自分をこそ唯一絶対に必要とすることがママであったはずなのに、実はぜんぜんそういうわけではなく、そもそも自分を必要としてもいないのかも知れないということが、一気に明らかになってしまう。これがトラウマになり、以前の記憶など封印してしまう(あるいはほぼ同じことなのですが思い出す理由を失う)というのがフロイトの説明です。

しかし子どもは、これもエルザと同じように、客観的視点とともに「オシゴト」という言葉をも得ます。いずれは、「ママにはオシゴトもヒツヨウなのだ」という自分を納得させる観点を確立できるでしょう。私たちが「自分の存在」を否定されたときにできることとは、こういうことなのではないでしょうか? 

必要なのは客観的視点と、自分を納得させる言葉なのです。