佐々木正悟のメンタルハック

メンタルハックをテーマにおいたビジネス書作家・佐々木正悟のブログです。ビジネス書作家のワークスタイルを中心に書いていきます

「毒親」が「私」に望んでいたことと「私の本当にやりたいこと」

 「毒親」って何のこと? という人も居ると思います。こういう本があるのです。

毒になる親 一生苦しむ子供 (講談社+α文庫)

毒になる親 一生苦しむ子供 (講談社+α文庫)

 

 あんまりおすすめはしません。必須という人にはすでにこういう本をご存じだろうと思います。先に断っておきますが私は両親に恵まれていたと思うし、従ってこの本に特別な感銘は受けませんでした。しかし、一文一文に肯かされるという人が居て、不思議ではありません。

親と「特別な問題」があったとは思わない私にしてもしかし「自由か束縛か」といった葛藤と無縁であったわけではありません。こういった問題は、問題であるときは常に両極端の間を振れます。100%の自由か、しからずんば牢獄か。といった感じになりやすいのです。

毒親」という造語は、どうもいただけないといろんな意味で思うのですが、「自分がやりたいことって何だろう?」という問題が、たとえばライフハック界隈から聞こえてきたとき、頭をよぎるキーワードが「毒親」だったりするのです。

うんと昔をたどったら、私もかつては母でした。つまり、母子が物理的な意味で「一体」だった時代というのは、あったはずです。

そのときには「佐々木正悟」というのは母体の中にあるわけですから、「私の望み」とはすなわち「母の欲望」と同一のはずです。「母が」何かを「私」に望むという形式が成立するのは、「私」が現実に客体としてあった以後のことになるはずです。

私がこの世に生を受けた以後であっても、ごく幼い頃には、「私の望み」というものは、「母が私に望むこと」とたぶん同一であったでしょう。仮に親が「毒親」であったとしても、子供というのは得てしてそうしたものです。

しかし、いつの頃からか「私の望みは私の望み」だという時期が訪れます。しかしそうなったとき、たちまちなにもかもリセットされ、それまで「母の望み」=「私の望み」であったものが、いきなり「我が頭脳にひらめきし稲妻のごとき欲望」が純然たるオリジナルに取って代わったというのもおかしな話です。

フロイトは「エスのあったところに自我をあらしめる」というようなのを理想とした時期があったようですが、あらしめるべきかどうかは別として、私の願望の起源が、母の望みから何の影響も受けていないとは考えられません。

が、先に書いたとおり、独立間もない頃には「自由か、死か」みたいな思考になりがちなため、「母の影響とおぼしき願望はすべて私の希望と認められない」といった発想になりがちです。そうやってあらゆる願望に検閲をかけてみると、残るはなにもない、といったことにしばしばなるのです。

毒親」が「私」にかける期待などに、私は鼻も引っかけられない!という心情だったことが、つまり私にもあったわけですが、それだと「なら私は何を望んでいるんだ?」という困惑に直面することになりやすいのです。

エスがあったところに自我をあらしめるもなにも、エスがあったところ(=親の望んだこと=母子一体だった頃の自分の望みでもあるもの)に「自我」を決してあらしめまいとしているのが「自分」のわけですから、どうしようもないわけです。

月日が過ぎ、事態が今となっては、ここで書いている「親」も「毒親」も、神話のたとえ話のようなものでしかありません。「親」などすでに他界しているという人も居るでしょうから、よけいです。

たとえば「親」がかけていた期待というのを、「教師」がでも「学校」がでも「会社」がでも「社会」がでもいいわけでしょう。

なんであれ、「それ」のくびきから離れたとき、私はおそらく「私が本当にしたいこと」を見つけ出そうとしたのです。しかし「私が本当にしたいこと」は「かつての期待」の影響を受けずにはすまないのです。

だから「エスがあったところに自我を」というか、くびきから離れる前に期待されたことと、離れたときの「私が望んだ」ことの混合液のようなものの中に「私の本当にやりたいこと」のヒントがありそうに思うのですが。