佐々木正悟のメンタルハック

メンタルハックをテーマにおいたビジネス書作家・佐々木正悟のブログです。ビジネス書作家のワークスタイルを中心に書いていきます

私たちはどうして「どもる」のか?

 

英国王のスピーチ (字幕版)

英国王のスピーチ (字幕版)

 

妻に連れられて、こういう映画を見てきたわけです。

これはおおむね実話に基づいた作品のようで、主人この「吃音持ちの英国王」はジョージ6世。

今となってはあまり有名人とは言えませんが、あのヒトラーと最後まで戦ったイギリスの王様がこの人なのです。

話はどうしても人前でスピーチしないではすまされない立場のこの人が、吃音で一言も言葉を発せなくなる。それをなんとかして治療しようとする。というところから始まります。

そして行き着いたのが、かなり怪しげな「言語学者」らしきオーストラリア人。「吃音」だから言語学なのか。しかしここで施されるのは九割方、精神分析です。

まず生い立ちを尋ねられ、いきなり激怒します。

「そんな話をしに来たわけじゃない!さっさと吃音の治療をしてくれ!」

「あなたは癇癪持ちだな。しかし人を罵倒するときには、どもらない。そういうふうにスピーチしたらどうだ?」

「公衆の面前では隠さなければならないんだ」

吃音のすべての原因が「生い立ち」にあるとは言えませんが、この映画の中では、「生い立ち」に焦点が集中しています。王室だけに、特殊な生い立ちであり、子どもの発達障害を作りだすにはうってつけ、といえなくもないからです。

言うまでもなく、「公衆の面前では隠さなければならない」ので、プライベートなことはいっさい言いたがりません。吃音なのはいつからか?どんな教育を受けてきたのか。兄弟仲はどうだったのか。両親との関係は?

全部秘密にしたいのです。これほど「抑圧」という言葉が圧倒的なケースもめったにないでしょう。

「医者」は言います。「生まれつき吃音だというこどもはいない」それはそうでしょう。生まれつき話せる子がいない以上。この種のことは、文化的に「きちんとしろ」とされることによって、何かの流れが混乱していることに関係があるはずです。王子様ほど「きちんとしろ」と言われる人は世界のどこに行ってもいないくらいでしょう。

王族でも何でもない私たちの場合でも、子供のころは何かにつけて「きちんとしなさい」「ちゃんとしなさい」の言われ通しですが、それが最初に、それなりに深刻な調子で言われるのが「トイレトレーニング」となります。

だからフロイトはそれを「肛門期」となかなかエグい専門用語で私たちに直面させようとしているわけです。文化が「きちんとしろ」などと言わなければ、たぶんそれに「失敗する」ことなどなかなか生じないでしょうが。

精神分析ではよく「肛門期」と「プレゼント」と「強迫症」の関係を指摘します。意味不明ですが、しかし「その典型が日本文化だ」と指摘している外国の教授もいるのです。

私たちが「きちんと出す」と手を叩いて喜んでくれた(であろう)人たちがいます。人の親にならないとよくわからないことですが、子どもがトイレで踏ん張って出すと、涙が出るほど嬉しかったりするのが親というものなのです。つまりこれは、子どもにとっては親への「贈り物」ということもできるわけです。

とはいえ、贈り物をきちんとするために、わざわざトイレに行くというのでは、行きすぎですし本末転倒というものです。強迫症の人のなかには、この種の「行きすぎたきちんと」で誰もが喜ぶものだと思い込んでいる人が多く見受けられるわけです。

映画の話に戻りますと、主人公のお父さん、つまりジョージ5世は立派な王様なんでしょうが、わけのわからないところがあって、つまり常人では立派な王様にはなれないのかもしれませんが、「国王というのは国でいちばん卑しい職業だ。全国民の機嫌を取るのだけが仕事だ。そのためにはスピーチしなければならんのだ。だから立派にやれ!」とのたまいます。

やりたいことがあってもそれは「公衆の面前では隠さなければ」ならなくて、やりたくもないことを「きちんと立派にやれば」みんなが喜ぶからというのでは、モチベーションが混乱して当たり前です。

トイレに行っても、出したいときには出してはならず、出したくもないときに「プレゼントとして出す」ことを要求され、しかもそれが自分の一生の仕事だとなったら、たまったものではありません。

「罵倒ならどもらない」。「発する」というのは、どうしても人間社会では「文化的な意味」をもってしまうのがストレスなのです。発する内容が排泄物だろうと、プレゼントだろうと、言葉だろうと、私たちはだれも「出したいから出す」というだけで「出す」ことが許されていません。

然るべき時に、然るべきやり方で、然るべき熱量で、然るべき形式において、出すことが求められています。王様ともなれば、それがもっとも求められます。

にもかかわらず、やはり王様といえども「然るべく出せばいい」のではないのです。きっちりしていればいいってものではない。第一に「出す主体である王様自身」がそれではモチベーションが湧かないし、第二に「受け取る側」も王様に意欲がないなら、つまらない。「然るべく」ばかりに徹底しているのが「強迫症的」なのです。

やはり「出したいから出す」必要があって、しかも「然るべきやり方」に叶っている必要もあって、さらに「隠すべきものまで出してはならない」のです。こうも条件が積み上げられたら誰にとっても容易ではなくなるから「うまくできない」人が現れて当然でしょう。

追記

そう言えばこの映画にはやけにモーツァルトが使われていて、クライマックスにはベートーベンの交響曲第七番でした。モーツァルトのお話でもない作品にしては珍しいなと思ったのだけど監督の趣味なのかな?