佐々木正悟のメンタルハック

メンタルハックをテーマにおいたビジネス書作家・佐々木正悟のブログです。ビジネス書作家のワークスタイルを中心に書いていきます

【精神分析】自己肯定感が低いのではなく、好意の表現に不安があるのだ

昨日の補足なのですが。

 

nokiba.hatenablog.jp

この方がわかりやすいかな、と思って「調子に乗る」という表現を使いましたが、「調子に乗る」はここではかなり限定的な意味で使っています。

子が親に対して、「ねえねえいいでしょ?」とトンチンカンなことを言うようなことを「調子に乗る」と言っています。それに対して子どもが恥ずかしがるような必要はまったくないのに、それをさも恥ずかしいことのように指摘もできるような言動のことです。

「甘え」と言ってもいいはずです。『甘えの構造』の「甘え」です。

 

「甘え」の構造 [増補普及版]

「甘え」の構造 [増補普及版]

 

親はこれくらいのことは受け止める義務がある。もちろん、親以外にはありません。しかし義務感で受け止めてくれている、などと少しでも子どもが感づいたらぜんぜんよろしくないでしょう。

「本当の私(あるがままの私)をぶつけたら、誰も受け入れてくれない」という発想が生まれるということ自体が、問題だということです。少なくともこの世に1人は、たしかに受け止めてくれる人がいた、という前提で動けることが大事です。それが母親なわけです。(だいたい母親の中に最初はいたのだから)。

母親以外は誰も、受け入れてくれはしないかもしれませんが、それにしてもかつて受け入れられた経験があるのとないのとは大違いです。1例あれば「あり得ない」という仮説自体が成り立たなくなる。

「あるがままの私」という発想は、この過程で作りだされるという問題なのです。逆ではないのです。「あるがままの私」を受け入れるだとか受け入れられないといった発想ができてしまうことに問題のポイントがあるのであり、「あるがままの私」の善し悪しはぜんぜん問題外なのです。

何らかの形で幼少時代、本来受け入れられて当然だったのに、受け入れられなかったという「思い込み」または事実のせいで、そういう「あるがままの、受け入れられない、しかし本当の私」という幻想が発生したわけです。

この幻想を抱いている人は、自他を問わず、人は受け入れられやすい外面を取り繕っていて、受け入れがたい内面を秘密に隠し持っている、という人間のイメージを持つものです。内面と外面に分かれているというイメージは、誰もがもっているわけではなく、事実まったくそうでもなく、ただ、立食パーティなどでいつまでも自分からは話しかけられない人に特有の世界です。

元はと言えば自分のほうから母親のやさしい愛情を破壊してこれを消滅させてしまったからだと思うようになり、また母親が自分の愛情を受け入れてくれないように見えるのも、もともと自分の愛情が破壊的で悪いものだからだと思うようになってしまうのである。

人格の精神分析学 (講談社学術文庫 (1173))

人格の精神分析学 (講談社学術文庫 (1173))

 昨日の記事でも引用しましたが、「自分の好意そのものの中に関係を破壊してしまう要因がある」と感じるのはとても悲劇的です。この本の中でフェアバーンは、「あかずきんちゃん」について面白い論評を沿えています。「赤頭巾ちゃんの悲劇は、前期口唇期(約1歳半くらいまで)の乳児の悲劇である」と。

つまり自分自身の愛情や好意といったものは、一種オオカミのように「悪い」もので、結局は相手との関係を食い尽くし、破壊してしまうと恐れているのが赤頭巾ちゃんだというわけです。

そのように恐れている人は同時に、目の前の相手がどれほど親切で好意的で「いい人」のように見えようと、つまり「優しいおばあちゃん」のように見えたとしても、いつオオカミのように牙をむき出しにし、自分を食べ尽くしてしまう(関係を壊してしまう)かわかってものではないという不安にもさいなまれているわけです。

そんなことになるくらいなら、外面は外面のままそっとしておく方がいい。しかし、それだと「内面の自分」は、いつまでたっても現実と隔てられたままで、味気なく寂しい思いをし続けることになってしまいます。だから「もっと自分に自信を持って外に向かって踏み出そう!」あるいは「内面をオープンにしよう!」というのでしょうか?

私にはそれは実に的外れな話だという気がしてなりません。もともとこの「自信のなさ」と「外面の取り繕い」と「内面の秘密」はすべて、内面に「悪いオオカミ」を飼っているから、それを秘密にせねばならず、そのために外面を取り繕っているが、他の誰もがそうなのだ、という特殊な世界観から派生した問題なのです。

だからこの構図をそのままに「外面の取り繕い方をハック」してみたり「あるがままの内面を誰かに受け入れてもらう経験」をしてみたところで、根本的な問題はそのままでしょう。

「内面と外面」は存在しないところから始まるはずです。