佐々木正悟のライフハック心理学

ビジネス書作家・佐々木正悟の公式ブログです。なるべくならお役立ち情報を出していきたいと思っています。

凍てつくヒョウの降る朝に早朝ランニングするのは意志が強いのか融通がきかないのか?

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平成最後の記事ですからずっと悩んでいた悩ましい問題を考え悩むことでしめくくりたいと思います。

きっと結論は出ません。

タスクシュートには、たっくさんのリピートタスクが発生します。

たとえば「朝食準備」というリピートタスクがあります。来る日も来る日も私は朝食の準備をします。

しかし、ただの一日たりとも100%完全に同じ朝食準備をする日はありません。ですが、間違いなくこれは「同じタスクの繰り返し」です。同じとはいったい、どういうことなのでしょう?

タスク名のほとんどがそうですし、リピートタスクは特にそうなのですが、まず何より「社会が定めた定め」のような名称を、自分が追認するという構造があります。

なんだかえらい複雑怪奇なことを言うようですが、サンプルは単純です。

たとえば「朝食準備」という言葉にしても

「朝食」を「準備する」という、社会に通用する言葉を使っています。ということはこれは、私が勝手に発明したものではなく、私が生まれる前からあった概念なのです。

私がこの世にないときにも「朝食準備」はあったのです。

この世のあらゆる「朝食準備」はそれぞれに違っています。またその作業を指し示す言葉も、絶対に「朝食準備」でなければならないという決まりはありません。「朝の支度」でもいいでしょうし、プリペアブレクファスト、とかでもいいでしょう。間違い英語ですけどね。

しかし私は自分の、おそらくは「朝食準備」と社会的に言うであろう作業を「朝食準備」として追認します。ここら辺に「意志の強さ」というものが問われ出す困惑の種が潜んでいるように思われるのです。

一見どれほどタスクリストを「自分のリスト」だと思おうと、現実には往々にして「社会的な意義のあるリスト」を実行する羽目になります。自由なようでいて、自由ではない。

「名前がつく」ということは、たいていの人がそれを理解できるという意味で、「意義のある」事柄なのです。作業であればますますそうなります。だって私が生まれる前から存在していた作業なのですから、ある程度社会的に意義深いからずっと存在し認知されてきたものなわけです。

簡単に名付けられるような行為は、それを私が「ただ好きだから」やるものだという可能性はあんまりないという意味です。

社会が意義深いと認めた行為を、私が追認して実行する。まさに義務を果たすようです。ここに意思力が問われるのは当然でしょう。

ところで社会が定めたとは言え、その定めは絶対的なものではないものです。たとえ法的な定めに則っているにしても、何事にも例外ということはあります。

歩行者は赤信号では待つべきですが、幼児が横断歩道で倒れて困っていたとしたらどうでしょう?

こういう例は簡単ですが、問題は社会が定めたという「定めた」ことには解釈の余地があるので、だから「朝食準備」か「朝の支度」かというゆらぎがあり得るわけです。

そんなゆらぎで困る人はめったにいませんが、自閉症気味のような人にしてみれば、こんなことでも困るのです。

12時に昼食が食べられなかったら、僕は怒り、大騒ぎしました。

僕の脳は、何かにこだわりながら、僕の体に指令を出すことがあります。
そのこだわりは、脳が僕を動かすために必要な手順書のようなものだと考えています。僕の意思とは関係ありません。

note.mu

私はこのことについてずっと考えてきました。タスクシュート以来ますます考えるようになりました。

「決まり」というものは同一性を持っているのです。それに一定以上の拘束力を与えるからこそ「決まり」として感じられるものです。拘束力を与えているのは私の頭ですが、人間の脳とはそういうふうに作られているとも言えます。

そしてその拘束力を「支持する」からこそ、 私は意思力を発揮してタスクリストを実行できるというわけです。しかし、あまりにそれが度を超すと、融通が利かなくなってしまう。逆に融通が利きすぎると、タスクは実行できなくなるでしょう。