認知的不協和という理論があります。
通常は、オカルトな宗教にはまる人たちはなぜ、教祖様が予言した「世界の終わる日」が過ぎてもなお、その宗教にはまり続けているのか。その「信徒の心理」を説明するために使われます。
これとは一見かなりかけ離れている
- 私たちはなぜ、ずっと前からやりたいと思っていた筋トレに取り組まず、どうでも良いテレビ番組を見てしまうのか
ということが、よく似ていると思ってきました。
どちらも、心の底には何らかの不満足を残しています。
教祖様の予言通りには、なっていないと、信徒の人は気づいているでしょう。
自分が本当は筋トレをすべきだったと、テレビを見ながら思う人も少なくはないでしょう。
このような問題になるとつい
- ほんとうにやりたいこと
という言葉を使いがちです。この言葉はどうしても
- 「私」という存在には本質的一貫性がある
というニュアンスがつきまといます。
本質的に一貫した私!
これこそが、どこを探しても決して見つからないもののはずです。
- 「私」はいつも流動的
だということさえ忘れなければ、筋トレを「やりたかった」としてもいまは「テレビが見た」くて、当然だと考えられるはずです。
- 本来一貫しているはずのものが、なぜか変化してしまった
のではなく
- 本来変化し続けているものに、なんとかして疑似一貫性を与えたい
と考えれば良いのです。
こう考えれば
- 「私」はいつでも筋トレがしたくなる
ということはあり得ないので
- 筋トレを嫌いになったときの「私」にでも筋トレをさせるにはどうしたら良いか?
にくわえ、
- 筋トレを嫌いになったときの「私」にでも筋トレをさせるのは良いことなのか?
というふたつの問をつねにたて続けねばならないと了解されるでしょう。
そしてこのふたつの問も、流動的な「私」は常に忘れ続けるので、絶えず「手紙」を手渡し続けてやる必要があることも了解されるはずです。
その手紙がメモであり、その手紙をわたし続ける仕組みをタスク管理というのでしょう。
ちなみにこの「手紙」を読むことで、その手紙の意味するところは理解できるのが、「私」の疑似一貫性であり、通常は「記憶」と呼ばれているものの力です。