こちらを読んでの感想になります。
この誰も参照されない状態になる時——誰かにメッセージを送っても返ってこない、思い通りのレスポンスがかえってこない時に、こういう「孤独」といったものが生じるのかなと思った。
とすると、「孤独」というのは「期待」の一種なのだろうか、と思います。
他人に対し
- これくらい、期待したって良いはずだ
という気持ちさえ裏切られたり無視されたとき、私たちは孤独感というものを持つのかもしれません。
この期待の妥当性が妥当であればあるほど、当事者の孤独は切実さを増し、たまたま目撃した人が良心的であれば、胸を痛めたりもするでしょう。
たとえばもうすぐ50になる私が
「いい年したおっさんが家に一人でいると寂しくなるよね」
とでもつぶやいたとしても、ある程度の「妥当性」は認められるでしょうが、胸を痛めるという人は多くはないでしょう。
これが
「お父さんもお母さんも毎日仕事で忙しいの」(7歳の少女)
となると、おっさんである私のつぶやきよりも一段と期待の妥当性が増すため、そのぶん切実さが強く感じられます。胸を痛める人が多くいるはずです。
つまり
- いい年したおっさんの相手をしてくれる妙齢の女性くらい社会に期待して良いはずだ!
- お父さんとお母さんのどちらかで良いから一緒にいて欲しいなあ!
2の方が社会に寄せる期待として妥当性が高いように感じられます。だから「そのくらいの期待に応えるべきであろう」という世論の高まりも期待できるわけです。
もう一歩進めます。
「おなかすいた・・・」(3歳児)
この3歳児の「孤独」となると、もはや何か手を打つべきだ、と大半の人が思うはずです。この「期待」はきわめて妥当性が高いと感じられます。
我々に「孤独」を感じる仕組みがあるのならば、なぜそれは必要だったのだろうか?
私が思うに、孤独感の必要性とは、
- 放置しないで欲しい(期待)
- 放置されていてはならない(期待に応える側)
というセットが人類という種の存続の役に立つからです。あり得ない仮定ですが、人がただ一人しか世界で生きてないならば、「孤独感」というものはおそらく存在しないでしょう。
孤独感は、感じるものと、それを受け止めるもののセットで成り立つはずです。
という文脈の中で、孤独感は徐々に解消されていくでしょう。なぜならば、期待する側(孤独な人)が、実は期待される側(孤独を癒やす側)であろうと自覚するほど、問題は本質的に解決に向かうからです。
ただしことの性質上、一気には無理です。私たちは、SOSがあることを知りながら、そのすべてに応えられるわけではないこともわかっています。
孤独はすぐにはなくならない。だからすぐには消えないのです。